今回は、NONさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。NONさん、ありがとうございます。
質問
師匠、今更そこ?と思われるような質問がありまして……、「因果応報」と言われているものについてです。自分がしたことの報いを受ける的な。
師匠のブログ、書籍、ツイートを読み返したのですが、明確なものが私には見つけられず、ズバリ師匠の見解を伺いたいと思いまして……。
自由意志もなく全て運命通りなら、報いも何も、全部ただ起こっているだけで、そこは気にすることではない、という感じでしょうか。
ブログのこの記事に書いてあるよ!というのがありましたら、ぜひ教えて欲しいです。見つけられなかったので……。
よろしくお願いいたします。
回答
NONさん、こんにちは。
なるほど、確かに因果応報については書いたことないと思います。
結論から言えば、因果応報は自分の主観的な認識なので、「あるようにも思えるし、ないようにも思える」という漠然とした感じなんです。なので、あまり気にしなくてもいいのではないかと思います。
例えば、神社にお参りに行って、何かしらの良いと思える出来事が起こるならば、人はそれを因果応報であるように感じるんじゃないかと思います。その反対に、人に対して何かひどいことをしてしまったなと思っている時に、何かしらの悪い出来事が起こるならば、人はそれも因果応報だと感じるんじゃないかと思います。
他にも、例えば宝くじで、100万円分を買ったとします。人によっては「何を無駄遣いしているんだ」と思うかもしれませんが、いざ、それで1億円が当たったのなら、反対に「良くやった」ということになるかもしれません。この場合、因果応報という考え方は矛盾することになるのではないかと思います。100万円分の宝くじを買うという〝原因〟は同じなのに、その〝結果〟は宝くじが当たるか外れるかという確率に左右されるからです。
因果応報という考え方は、実のところは、〝結果〟に対して、無理やりにでも〝原因〟を作ろうとするようなものなんです。
例えば、100万円分の宝くじを買って、1億円が当たったのなら、「神社にお参りに行ったから、あの時、宝くじを買おうと思い立ったんだ」という風に、原因の原因を考えるかもしれません。でも、宝くじが外れてしまったのなら、神社にお参りに行ったという事実は無視されて、「あの人にひどいことをしたから、あの時、宝くじを買おうと思い立ったんだ」という風に、原因の原因が変わってしまうのではないかと思います。
因果応報の考え方は、自分に都合の良いように組み立てられていくので、そこには再現性がないことが多いと思います。なので、そういったことを気にするよりは、自分が何をしたいのか、もしくは、何をしたくないのか、という自分の衝動に正直であったほうが良いのではないかと僕は思ってます。
(関連記事:本当に運命は決まっているのか?【自由意志と運命】)