今回は、真我実現とは何かということが簡単に分かる、リトマス紙的なお話をしようかと思います。世の中的には、真我実現とは、〝自我〟が消えることだと思われていたりすることもあります。でも、自我というのは、関係性の中で機能する一時的な存在なのであり、そもそも、根本的に消えるということはありません。僕も妻に、「山家さん、自我強いじゃん!」とか言われることがあります。もし、真我実現するということは、自我が消えることなのだと錯覚しているのだとしたら、そういった言葉を気にするかもしれませんが、僕は、「いや、自我はあって当然じゃない?」とか言います(そう言うと、めんどくさそうな顔をされたりしますが)。実のところは、真我実現というのは、自我がどうこうというよりも、アイデンティティのシフトなんです。
もし、今この瞬間、記憶喪失になったとしたら?
例えば、今この瞬間、記憶喪失になったとしたら、あなたは、自身が消えたかのように感じるでしょうか? それとも、依然として、あなたはそこに在るでしょうか?
この質問は、真我実現しているかどうかの、リトマス紙になり得ます。もし、記憶喪失になろうとも、「私はここに在る」と思えるのならば、それは真我実現しているか、探求の帰路についている人かもしれません。自我がどうこうというのは関係がないんです。これは直感的な認識なのであって、真我(ハート)そのものを自分自身だと感じているかどうかを問うものです。
例えば、テレビのチャンネルを切り替えたとしても、テレビそのものは同じものであるように、その中に何が映っているのかは、対象の問題なのであって、主体には関係していないんです。「私は在る」ということが自身のアイデンティティなのであって、一時的な機能性である自我は、認識される対象のひとつです。
あなたのアイデンティティはどこにあるのか?
でも、多くの人は、「記憶喪失になったなら、それはこの自分が消えてしまうことだ」と感じるのではないかと思います。それはつまりは、記憶そのものが、自身のアイデンティティだということを意味するのですが、あなたはどう感じるでしょうか?
人によっては、「う〜ん、確かに自分という存在は記憶に依存しているかも」と思うかもしれませんし、「いやいや、確かに記憶も自分だけど、記憶だけに限られる存在ではないよ」と思う人もいるかもしれません。どれくらい、記憶に自身のアイデンティティが依存しているのかというのは、人によって違うのであり、この質問への反応も様々だと思います。
アイデンティティの感覚というのは、固定的なものではなく、結構、移ろい変わりやすいものです。例えば、映画や漫画では、スパイを題材にしたものも数多くあると思います。それが、長期潜入モノだと、自分がどちら側なのか分からなくなるという葛藤が描かれることも多いような気がしています。例えば、マフィアにスパイとして10年以上潜入している捜査官が、気がつけば、マフィアを〝演じている〟わけではなく、実際にマフィアなのだと錯覚することが増えてくるというようなものです。
実のところ、こういったアイデンティティの錯覚というのは、起こって当然なんです。人には、意識する対象を、自分自身であるように感じていくという性質があります。なので、潜入捜査官が、自身をマフィアのように錯覚していくように、真我が、自身を自我(記憶を元にした思考やイメージ)だと錯覚していくというのも当然のことなんです。
アイデンティティの錯覚を取り除くにはどうすればいいのか?
アイデンティティの錯覚を取り除く方法はシンプルです。思考したり、イメージしたりする時間を減らせばいいだけです。記憶を参照する時間を減らせばいいんです。そうすると、潜入捜査官が、警察に戻ってくれば、自然と自身がマフィアだという錯覚が取れていくように、自身が自我だという錯覚が取れやすくなっていきます。
もちろん、それは簡単ではないかもしれません。シンプルな話、もし、真我が長い時間をかけて、自我だと錯覚するようになったのなら、錯覚を取り除くには、その逆を辿る必要があるんじゃないかと思います。もし、1日の中で、思考している時間と、思考していない時間の割合が、9:1ぐらいであったのなら、その割合を1:9ぐらいにひっくり返さなければ、錯覚はとれないんじゃないでしょうか? 僕の経験からいっても、少なくとも一定の期間は、それぐらいの実践は必要な気もします。
ただ、こういう話をすると、「じゃあ、1日10時間ぐらい瞑想しよう」と思う人もいるかもしれませんが、〝自我〟がそれをしようとすると、反対に本末転倒になってしまう可能性が高くなるのが、探求の難しいところです。錯覚している本人が、錯覚を取り除くことはできないんです。1日10時間瞑想しても、もし、その瞑想が瞑想対象を必要とするものなのであれば、それは自我の錯覚を強くするだけかもしれません。それは例えるなら、潜入捜査官が、マフィアの本拠地の中で、〝警察に戻ったようにイメージをする〟というようなもので、どれだけ上手にイメージしようが、そこはマフィアの本拠地の中なんです。
コントロールしたいがゆえに、記憶に依存してしまう
自身のアイデンティティが記憶に依存していることは、コントロール欲と密接に関係しています。記憶喪失になると、自身が消えてしまうかのように感じるのは、記憶がなければ、この人格として思考したりイメージすることができなくなるということであり、コントロール機能を失うからです。特に何もコントロールする必要がないのであれば、それは問題にはならないはずなのですが、例えば、「瞑想しなければならない」などのコントロール欲がある場合、それは問題になります。
「瞑想しなければならないというコントロール欲はいいんじゃないの?」と思うかもしれませんが、瞑想という行為は自我にとっての隠れミノになりがちです。例えば、「瞑想するから真我(ハート)を感じることができる」という認識を持つ人は少なくないのではないかと思います。でも、実際のところは、そう思っているからこそ、ハートの感覚を一時的なものにしてしまっているというところがあります。
瞑想するから、真我(ハート)を感じることができると思っているなら、記憶を失うことで、コントロールを失うわけにはいかないでしょう。自我のコントロールを失ってしまえば、真我(ハート)すら失ってしまうかのように感じられるんです。でも、実際のところは、コントロールを失うからこそ、結果的に、真我(ハート)にとどまることができるようになります。無意識的な働きに任せればいいだけです。自我としてコントロールする必要もなくなるため、記憶への依存もなくなっていきます。これは、真理的な逆説です。
コントロールを失うということは、自我としての理想を放棄することでもあります。おそらくは、自我にとっては、そこが一番受け入れがたいことです。現代においては、瞑想というのは、理想を実現するための手段として使われることも多くなっているように感じます。自我にとっては、本当には真我(ハート)は重要なものではなく、それは、自我の理想を実現するためのエネルギー的な手段とみなされていることが意外と多いように感じます。
それはどういうことなのかと言えば、テレビの中の登場人物が、「自分が存在するからこそ、テレビも存在できる」と思っていて、テレビが持つ熱源を利用して、テレビの中の世界を理想的にしたいと思っているようなものです。このテレビの中の登場人物は、テレビではなく、テレビの中に映し出される映像の方を、永続的に実在する主体だと考えていて、テレビの方を、映像の中に属する対象だと考えていたりします。この例えであれば、それは錯覚だというのが分かりやすいかと思いますが、実際のところは、この世界も同じようなものだということには気がつきにくいです。
もちろん、こういった錯覚を楽しめているならいいと思いますが、すべてが一時的で、同じようなことの繰り返しだということにうんざりしてしまっている人は、自身のアイデンティティが記憶に依存してしまっていないか? そしてまた、その依存を強める方向に進んでしまっていないかを確かめてみてもいいかもしれません。
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