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「奇跡のコース」の思想について【Q&A】

今回は、MKさんから頂きました質問メールを公開したいと思います。MKさん、ありがとうございます。テーマは「奇跡のコース」の思想についてです。

MKさんからの質問

はじめまして、MKと申します。
私は〈愛〉について探求しています。偶然こちらのブログを拝見して、山家さんの文章にとても共鳴しました。気づきをありがとうございます。
さて、こちらの記事にはラマナ・マハルシ系統の思想がよく紹介されていますが、山家さんは「奇跡のコース」という本をご存じでしょうか?
これは純粋非二元をテーマに愛と赦しについて書かれた本なのですが、内容的にはラマナと同じようなことが書かれているように、私には感じられます。けれども、〈真我=愛〉に至るまでのアプローチというか、方法論が随分独特なんです。このコースでは、「神と分離している」という幻想を見ているエゴを赦し、〈神へいざなう声=聖霊〉の思考を常に選んでいくことで、愛へ帰還できるとしています。そこで、もしよろしければ、このような奇跡のコースのアプローチ法に対する、山家さんのご意見をお聞かせ願いたいです。

回答

MKさん
こんにちは。

ご質問ありがとうございます。
このブログがMKさんの気づきになっているなら嬉しいです。

「奇跡のコース」というのは名前は知っているのですが、残念ながら読んだことはありません。
なので、言えることはちょっと限られてしまうのですが、ご了承ください。

> このコースでは、「神と分離している」という幻想を見ているエゴを赦し、〈神へいざなう声=聖霊〉の思考を常に選んでいくことで、愛へ帰還できるとしています。

これは、どんな真理についてのアプローチ法にも言えるのですが、「一体、誰がそのアプローチをしようとしているのか?」という問題がでてくるんです。

奇跡のコースの場合には、「一体、誰が「神と分離している」という幻想をみているエゴを赦すのか?」ということになるんでしょうか。
実のところ、「神と分離している」という幻想をみているのは、そのエゴではなくて、意志としての自分自身なんです。

真理の探求において、これを理解するのが、なかなか難しいんです。

MKさんは、自分自身が「神と分離している」と感じるでしょうか?
それとも、自分の中の何かが「神と分離している」と感じるでしょうか?

多くの人は、自分の中に、神と分離している何かがあって、それを対象に、あれやこれやと何かをしようとする傾向があると思います。
「神と分離している」という幻想を見ているエゴを赦せば、その幻想は消えて、神と一体となれると考えたりするかもしれません。

でも、そうはならないんです。
エゴが神と分離しているわけではなく、エゴを観察している、意志としての自分自身が神と分離しているだけなんです。

真理の探求というのは、実のところはとてもシンプルで、意志として、「神と分離している」という幻想を捨てればいいだけなんです。
幻想を捨てるというのは、そのことについて、思考したりイメージすることをやめるということですね。

なので、ラマナ・マハルシも、「ただ、静かにしていなさい」と言いますし、他の覚者も同じようなことを言います。

そういった観点からいくと、「〈神へいざなう声=聖霊〉の思考を常に選んでいく」というのは、少し違うような気がします。
それには、「神と分離している」という幻想を見ている、意志としての自分自身の存在が必要だからです。

静かであるために、何かを選択するという必要はありませんし、もし、思考が現れるなら、それらすべてを〈神へいざなう声=聖霊〉として受け入れればいいんじゃないかと、僕は思います。

もちろん、真理について書かれた書物というのは、同じ書物の中でも、矛盾したことが書かれていたりしますし、「奇跡のコース」の中でも、実は、分離しているのは意志としての自分自身だということが書かれているかもしれません。

> このコースでは、「神と分離している」という幻想を見ているエゴを赦し、〈神へいざなう声=聖霊〉の思考を常に選んでいくことで、愛へ帰還できるとしています。

ただ、この文章だけから判断するなら、「一体、誰がそのアプローチをしようとしているのか?」という問題が見落とされているように感じられます。

こんな感じで、参考になるでしょうか?
なにかあればまたご連絡ください。

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作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

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