探求というか、スピリチュアルな世界では、「ジャッジ」という言葉がでてくることがあると思います。
「ジャッジをしないように」とか。
でも、この言葉。
スピリチュアルな言葉の中でも、1位、2位を争うほど、誤解されている言葉でもあるようにも思います。
一体、「誰」が「何」をジャッジしてはいけないんでしょうか?
右頬を殴られたなら、喜んで、左頬も差し出さなければいけないんでしょうか?
「ジャッジ」って、一体、なんなんでしょうか?
すべてに「Yes」と言わなければならない?
「ジャッジをしない」という言葉を、「すべてに「Yes」と言わなければならない」と解釈している人は、どれほどいるでしょうか?
もしくは、「すべてに「No」と言ってはいけない」と。
僕は、その昔、そういう風に解釈していたことがあります。
すべての出来事が、運命であるのならば、それに逆らってはいけないと。
すべてに「Yes」と言わなければいけないと。
もし、「No」と言いたくなったのであれば、それこそ「ジャッジ」だから、自分を戒めなければならないと。
こういった考え方は、人によっては、魅力的に思えるかもしれません。
今までの不完全な自分から、なにか新しい自分に生まれ変わることができるような、魅力的な考え方に思えるかもしれません。
でも、違うんです。
こういった考え方は、ただ、苦しみを増やすだけです。
自分の「No」にも「Yes」と言うべし。
もし、本当に、すべてに「Yes」と言わなければならないのだとしたら、自分の「No」にも「Yes」と言うべきなんじゃないでしょうか?
例えば、銀行のATM。
月末になると、10人〜20人の長い行列になることがありますよね。
そんな時、あなたの目の前に、誰かが割り込んできたらどう思うでしょうか?
「割り込んでくるなよ!」とか思うんじゃないでしょうか?
まさしく、「No!」です。
それに対して、「いやいや、そう思っちゃダメだ!割り込まれたのは、多分運命なんだ。これでいいんだ。イエス!イエス!」って思うでしょうか?
それって、「ジャッジ」ですよね?
自分の「No」に対して、「No」と言っていますよね。
「それで運命に沿えるのなら、それはOKなんじゃない?」って思う人もいるかもしれません。
でも、それは大きな思い違いです。
もしかして、「自分は運命に逆らうことができる」と思ってはいないでしょうか?
それは不可能です。
世界全体が運命にしたがって動いているのだとして、自分だけが、その運命から外れて動けると思うでしょうか?
自分だけは、特別な存在なんでしょうか?
もし、そう思うのなら、それこそ、分離感を感じる原因になります。
「割り込んでくるなよ!」と思ったのなら、それは運命です。
その「No」に対して「Yes」と言えばいいんです。
それで終わりです。
でも、「いやいや、そう思っちゃダメだ!割り込まれたのは、多分運命なんだ。これでいいんだ。イエス!イエス!」って思うかもしれません。
もし、そう思ったなら、その「Yes」に対しても「Yes」と言えばいいんです。
あらわれる思考や考えを、自分の意志として握りしめずに、それらすべてに対して、「Yes」と言えばいいんです。
自分の欠点をジャッジする必要はありません。
この世に、欠点がない人はいません。
誰しもが、欠点の1つや2つは持っているんじゃないでしょうか?
そして、自分の欠点を、矯正したいと思っている人は少なくないんじゃないでしょうか?
例えば、モノゴトを継続できない人は、「私は、継続力を身に着けなければいけない」と思っていたりするんじゃないでしょうか?
それは、まさしく自分への「ジャッジ」です。
自分に対する「No」です。
「そういったジャッジは、むしろ、良いんじゃない?」と思う人は、少なくないと思います。
むしろ、多いかもしれません。
僕も、そうしてきたからです。
僕は、多くの人と関わることが苦手です。
大勢の人が集まる場所に行くと、落ち着かなくなります。
一時期は、「この、人見知りの性格と、社交性のなさを克服したいな」と思っていたこともありました。
でも、今は、そんなことは思いません。
「治ればいいな」とも思わないんです。
むしろ、僕は、こういう性格である必要があるのだなと思っています。
そうであるなら、それに対して「Yes」と言うだけです。
そこには、何も問題がありません。
運命にしたがって、起こるべきことが起こるはずです。
でも、そのことを問題視する人がいます。
あなたの中にも、その人がいるんじゃないでしょうか?
その人は、言葉にならない声で「No」と叫びます。
感情という名の、強力なエネルギーを使って、大声で「No」と叫びます。
その人は、あらゆるモノゴトを、「ジャッジ」せずにはいられません。
自我の仕事は、ジャッジすることじゃありません。
その人とは、「自我」です。
自我は、この世界をコントロールしたいと思っています。
運命にしたがって動いているこの世界を、コントロールしたいと思っています。
運命にしたがうフリをして、コントロールしたいと思っています。
努力すれば、コントロールできるんじゃないかと思っています。
そのために、他人を変えようとしたりします。
そのために、自分を変えようとしたりします。
でも、なんで、運命どおりじゃいけないんでしょうか?
実は、この問いは、とても重要です。
なんで、運命どおりじゃいけないんでしょうか?
なぜでしょうか?
この世界では、すべての人が、自分の希望どおりの人生を送りたいと願っています。
それは、人類にとっての、当然の、共通認識になっています。
なので、「なぜ、希望どおりの人生を送りたいのか?」という、根本的な理由については、あまり、問われることがありません。
「そんなの当然じゃん」で終わります。
でも、その理由は明確です。
不満だからです。
今、この瞬間、満たされていないと感じるからです。
何かが欠けていると思うからです。
もしくは、退屈だからです。
そして、満たされている自分を、未来に投影します。
なので、希望どおりの人生じゃなきゃダメなんです。
そして、希望どおりの未来にしていくべく、色々なものを「ジャッジ」していきます。
それは、他人だったり、自分だったり、社会だったりします。
実は、その行為が、満たされない原因になっているとも知らずにです。
だからこそ、「ジャッジをしない」と言われます。
この言葉には、「運命を受け入れること」「今に、満足すること」という意味も含まれています。
でも、自我にとっては、このことは受け入れがたいことです。
運命を受け入れて、今に、満足するということは、自身の存在理由を失うことでもあるからです。
自我は、仕事を失います。
でも、それでいいんです。
自我にとって、本来の仕事というのは、すぐそこにある、満たされた感覚の中にとどまることです。
本来、なにもしなくてもいいんです。
世界のことは、体と心の運命に任せればいいんです。
なのに、自我は、わざわざ、満たされた感覚の外に出てきては、「私は満たされていない!」と叫び、満たされた自分を、未来に投影します。
自分が、何をしているのか、わかっていないんです。
自我の本当の仕事場は、自分の内側にあります。
ハートの中にとどまることは、雄弁な「Yes」です。