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悟りと真理について

悟りの境地とは何か? それは目指せるものなのか?

〝悟り〟という言葉は、とてもあやふやなものです。〝悟りの境地〟という言葉は、それに輪をかけて、あやふやなものかもしれません。「境地」という言葉を辞書で調べてみるならば、「体や心が置かれている状態」とあります。であるなら、〝悟りの境地〟とは、心が〝悟り〟という特別な状態に置かれている状態ということになります。でも、本当にそうなんでしょうか?

悟りの境地と、特別な体験

〝悟りの境地〟というものがあったとして、人は、どのようにしてその状態が〝悟りの境地〟だと自覚するんでしょうか? 例えば、コロンブスがインドを目指してアメリカ大陸にたどり着き、そこの先住民を〝インディアン〟と呼んだように、人はいとも簡単に錯覚を起こします。悟りを目指す人が、瞑想などを実践して、何か特別な体験をしたとします。それは、〝悟りの境地〟なんでしょうか? それとも、それは単なる〝特別な体験〟なんでしょうか? 人それぞれ、その判断は違うかもしれません。でも、中には、その体験が〝悟りの境地〟だったのだと感じる人もいるでしょう。

〝悟りの境地〟を語る時には、どうしても、この相対性による錯覚を避けることはできません。人は基本的に、信じたものを真実だと認識します。フェイクニュースだって、信じたその人にとっては真実なんです。なので、もし、〝特別な体験〟を〝悟りの境地〟だと感じたのであれば、その体験は、その人にとっては〝悟りの境地〟になります。もし、その人が非常にエネルギッシュで、声の大きい人なのであれば、自身のその〝悟りの境地〟を人に語り始めるかもしれません。そこには確信も伴うので、それを聞いた人は、「ここまで確信を持って言えるということは、それは本当に〝悟りの境地〟なんだろう」と思ったりもします。〝悟りの境地〟というイメージは、そのようにして形づくられていったりもします。それは、超越的な表現になることも少なくないと思います。

その一方で、「〝悟りの境地〟などというものは無い」と言われることもあります。言ってみれば、何かを体験したとしても、それらはすべて〝特別な体験〟でしかないということですね。こういった考え方のベースにあるのは、「すべては一時的な体験でしかない」ということなのではないかと思います。もし仮に、〝悟りの境地〟というものがあるのだとして、それが一時的な体験なのであれば、それはとても〝悟りの境地〟だなんて言えないということです。瞑想を実践すると、サマーディと呼ばれる体験をしたりすることがあります。そういった体験は、何か幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりするという特別な体験とは区別されているのではないかと思います。それは、言葉やイメージとは結びつかない解放的な体験です。でも、それが一時的な体験でしかないのであれば、やはりそれは〝特別な体験〟でしかないのでしょう。

〝悟りの境地〟を心は恐れている

〝悟りの境地〟というものが、もし仮に存在するのだとすれば、それは絶対的なものであるはずです。でも、この世界での体験は、すべて相対的なものであるように感じられます。あらゆることに、原因と結果の関係性があるように感じられます。例えば、〝瞑想する〟から〝悟りの境地〟が現れるように感じるのであれば、〝瞑想する〟という原因があるからこそ、〝悟りの境地〟という結果が現れるということになります。その関係性は相対的です。

でも、人が瞑想するのは何故なんでしょうか? それは、「瞑想を実践することで〝悟りの境地〟に至ることができる」と誰かに言われるからなんじゃないかと思います。そのようにして、人は自分自身で〝瞑想する〟という原因を作り出し、〝悟りの境地〟という一時的な結果を体験し、「〝悟りの境地〟というのは一時的な体験なのであり、〝悟りの境地〟などという絶対的なものは実際には無い」と思ったりします。逆説的に、そのことを理解することを〝悟り〟と呼ぶかもしれません。でも、自分自身で〝瞑想する〟という原因を作り出すなら、その結果が一時的なのは当たり前なんじゃないでしょうか?

瞑想中にサマーディが起こることがあるのは、瞑想しようとする心が、瞑想中に消えてしまうからです。心が〝無い〟状態がサマーディの原因なのであり、〝無い〟ものを原因と呼ぶことはできません。なので、サマーディが起こることには、実は原因が〝無い〟んです。

心は、その事実を非常に恐れます。というのも、心は自分自身を〝原因〟として、好ましい結果を体験したいと思っているからです。〝瞑想する〟ということも、心がその原因になれるからこそ、心はそれを実践しようとします。心はモンキーマインドとも呼ばれるように、ジッとしてはいられません。次から次へと新しい枝に飛び移っていきます。当然、〝瞑想する〟というのも、枝のひとつです。瞑想の時間が終われば、心は新たな枝を探そうとするでしょう。

何もしない時間は解放的か? それとも退屈か?

瞑想を実践したことが無い人でも、サマーディの感覚を感じたことはあるはずです。その感覚は、特別なものではなく、非常に馴染み深いものです。例えば、何もしない時間は解放的でしょうか? それとも退屈なものでしょうか? この問いに、明確に白黒つけて答えられる人はいないのではないかと思います。それは解放的なこともあれば、退屈なこともあるからです。サマーディの感覚というのは、何もしない時間の解放感に似ています。その感覚を感じたことがないという人はいないでしょう。

でも、その解放感はそう長くは続かないはずです。しばらくすると、「……退屈だ」という感覚が現れてきたりします。何もしない時間であることは同じなのに、感じ方に変化が起きるんです。一時的に消えていた心が、再び現れて、退屈を感じ始めるんです。「それって当たり前のことじゃない?」と感じるかもしれませんが、その退屈感は、一時的なものだということを知っている人はどれだけいるでしょうか?

心は、「すべては一時的な体験でしかない」と思っていたりもしますが、退屈感だけは例外扱いすることが多いです。でも、それは例外じゃないんです。だからこそ、瞑想中(退屈中)にサマーディが起こることがあります。何もしない時間を、解放的に感じることがあります。ただ、退屈感が消えるときには、心自身も消えてしまうため、モンキーマインドな心はそれが持続することを恐れているんです。言ってみれば、「すべては一時的な体験でしかない」という言葉の中に、心自身が含まれていることを恐れているんです。

でも、実際の体験としては、心が消えている間の解放感は心地の良いものなんじゃないでしょうか? 心の視点からすれば、心が消えてしまうことは絶望的に感じられたりもします。ずっと心として活動していたいと思っていたりします。でも、いざ心として消えてみると、そこに解放感を感じたりします。矛盾しているのですが、どちらも自分自身の体験として感じられるものです。

あなたはどちらを好むでしょうか? 心として、モンキーマインドとして、新しい枝から新しい枝へと飛び移り続けたいと思うでしょうか? それとも、心として、自ら消えることによって解放感に浸りたいと思うでしょうか? 人には感情的な衝動があり、それに抗うことは難しいです。人は、感情的な衝動に従わざるを得ないようなところがあります。もちろん、それを楽しめるなら、それを楽しめばいいんです。もしくは、苦しめばいいんです。でも、感情的な衝動だって一時的なものであり、それは飽きるという形をとって消えていきます。モンキーマインドを続けることだって、段々と難しくなっていきます。新しい魅力的な枝を見つけることが難しくなっていきます。

新しい枝を見つけられなくなった人は、最終的には、心として自ら消えるということを試さざるを得なくなるのではないかと思います。それは絶望的なことなのか? それとも解放的なことなのか? そしてまた、その解放感は一時的なものなのか? 試してみるしかありません。それは、〝悟りの境地〟とは何かを理解するための入り口になるかもしれません。

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