今回は、明朝体Dさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。
明朝体Dさん、ありがとうございます。
テーマは、「私は在る」についてです。
明朝体Dさんからの質問
いつも興味深く拝見させて頂いています。
私はニサルガダッタ・マハラジの本をかじり始めた探求初心者です。
マハラジの「私は在るに留まるように」という言葉を信じ、暇な時は目を瞑ってそれに専心しています。
数分続けると心地よい感覚が芽生えますが、更に続けると観察しているはずの「私」が何か違うことを考え始めてしまいます。それを今までは集中力の欠如のせいだと思っていたのですが、最近その瞑想の中断が起こる瞬間、何者かに拒絶されるような感覚に襲われるようになりました。
そして、その拒絶者が私が私と思っているもののさらに上位の私であるように感じるようになりました(なんと言いますか、私が世間のしがらみで幸福になったり、不幸になったりするのをより高みから見物しているような?)。
拒絶の力は大変強く、もしこの上位の私がブラフマンであったとしても、この私に留まり続けることは至難の業となりそうです(ゲームのRPGで言えば、レベル3の勇者でラスボス魔王に挑むような感覚です)。
このままこの瞑想を続けて慣れていくべきか、もしくは方法がそもそも間違っているのでしょうか?ご教示頂ければと思います。
山家による確認
明朝体Dさん
こんにちは。
メッセージありがとうございます。
> 数分続けると心地よい感覚が芽生えますが、更に続けると観察しているはずの「私」が何か違うことを考え始めてしまいます。
ひとつ、確認させてください。
観察しているはずの「私」が何か違うことを考え始めてしまうというのは、気づいている状態を保てている状態でしょうか?
それとも、考え事をしていたことに後になって気づく感じでしょうか?
それによって、回答も変わってくるかもしれません。
明朝体Dさんからのお返事
お返事ありがとうございます。
保てているかどうかだけで言えば一連の思考の流れを見続けていられるので保てているんだと思います。
今日も瞑想をやってみて思ったのですが、「私は在るってどれだけ自然体で感じてもいわゆる『思考』で、『思考』に留まるなんて無理じゃない?」と自分が感じていることに気が付きました。言葉にするとそうなるんですが、私としてはそれを存在感のある何かに通告されているように感じるんです。
真理探求の本は読み始めたばかりですが、なにぶん信じやすい性格なので分かったつもりになっているだけかも知れません。
山家による回答
> 保てているかどうかだけで言えば一連の思考の流れを見続けていられるので保てているんだと思います。
そうなんですね。
初心者のうちは気づきを保ち続けるのも難しかったりするので、明朝体Dさんは元から意識的な性質を持っているのかもしれませんね。
> 今日も瞑想をやってみて思ったのですが、「私は在るってどれだけ自然体で感じてもいわゆる『思考』で、『思考』に留まるなんて無理じゃない?」と自分が感じていることに気が付きました。
これは、「私は在る」の「私」を勘違いしているところからくる認識かと思います。
明朝体Dさんは、「私」から拒絶されていると思うかもしれませんが、実のところ、明朝体Dさんが「私」を拒絶しているんです。
真理の世界で言われる、いわゆる「私」というのは、誤解を恐れずに言うならば、「虚無」のことです。
意識によって、気づく対象が何もない状態、もしくは、何にも反応していない状態、それが「虚無」です。
そのことを、「沈黙」と呼んだり、「私は在る」とも言うんですね。
明朝体Dさんは、真理を理解したいという意志を持っていると思います。
というか、その意志が明朝体Dさんだと思います。
その意志は、「私」じゃないんです。
なので、「『思考』に留まるなんて無理じゃない?」っていうのはその通りなんです。
むしろ、その必要がありません。
ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在るに留まるように」と言いますが、いきなりそれを実践できる人は稀だと思います。
意志というのは、自我であり、個人性を生み出すものです。
そして、その根源は、感情的なエネルギーにあります。
そのエネルギーはかなり強力です。
明朝体Dさんが感じている強力な拒絶の力というのは、実のところ、明朝体Dさん自身のエネルギーなんです。
例えるならば、明朝体Dさんがしようとしていることは、ラスボス魔王が、レベル3の勇者のフリして、自身の影と戦おうとするようなものかもしれません。
想定しているラスボスやレベル3の勇者は存在しないんです。
自身がラスボスです。
この構図が、真理の探求のとても難しいところで、「私は在る」に留まるには、まずは自身がラスボスであるということを自覚する必要があるんです。
瞑想を続けることはいい事だと思います。
ただ、湧き起こる思考や感覚に反応しないようにする努力は必要かもしれません。
> 言葉にするとそうなるんですが、私としてはそれを存在感のある何かに通告されているように感じるんです。
なんらかの体験や、感覚に意味を持たせようとするのも、意志の性質のひとつです。
そう思うのは当然と言えば当然なのですが、瞑想をする場合には、そういったものに反応しないというのも重要です。
ラマナ・マハルシは「瞑想とは戦争です」と言ったりしますし、それが至難の業であることには変わりないかもしれません。
ただ、瞑想を続けていくうちに、思考や感覚に反応しない努力を続けていくうちに、思考や感覚が起こりにくくなってきたりします。
反応しない努力をせずとも、思考や感覚が収まるようになってきます。
意志として何もせずとも、沈黙が保たれている状態、それが「私は在る」です。
恐らく、明朝体Dさんが思う「私は在る」と、ニサルガダッタ・マハラジの言う「私は在る」にはズレがあると思います。
なので、まずは、「私は在る」とは何なのかを、瞑想を通して理解していくのがいいのではないかと思います。
ちなみに、「私は在る」についてはこちらの記事が参考になるかもしれません。
https://ku-haku.jp/i-am-instant/
明朝体Dさんからのお返事
ご丁寧にありがとうございます!
もう一つ質問よろしいでしょうか?マハラジは「あなたはあなたが知覚できるものではありえない」とも言っています(うろ覚えです)。この話を逆算して知覚できること(触覚や思考、観察している感覚など)を無視していくと、最終的になんというか非常にぼーっとした感覚に見舞われます。ほぼ何も考えてない状態です。これは「私は在る」の状態でしょうか?
山家による回答
> マハラジは「あなたはあなたが知覚できるものではありえない」とも言っています(うろ覚えです)。
そうですね。
例えるなら、太陽の光があるからこそ、人は世界を知覚することができるけど、太陽そのものを直視(知覚)することは難しいという感じかもしれません。
太陽を知覚しようとするんじゃなくて、実は、自分が太陽だったということに気がついて、それとして在ることが「私は在る」という感じです。
> これは「私は在る」の状態でしょうか?
そうかもしれません。
「私は在る」というのは、特定しようとすると難しかったりするんですが、すべての人が知っている感覚です。
ただ、知的な理解と、実際にそのことが腑に落ちることには飛躍があるかもしれません。
実は、自分が太陽だったということに気がつくのにはちょっとした飛躍があるんです。
アハ体験というか、「ハッ!」とした気づきというか。
後から考えれば「なんで今まで気がつかなかったんだろう。。」という感じなんですけどね。
ほぼ何も考えてない状態を保とうとするのは良いと思います。
それを続けていれば、どこかの段階で、「その何も考えていない状態を打ち破るのは、勝手に湧き起こる思考なのか?それとも、意志としてのこの自分なのか?」ということを自覚をせざるを得ない現象が起きるかもしれません。