探求の世界では、
「自我」や「エゴ」という言葉がよく使われます。
「エゴを手放しなさい」とか
「自我を殺しなさい」と言われたりします。
でも、そもそも、
自我ってどういうものなんでしょうか?
この部分を理解しないまま、
自我やエゴをなんとかしようとしている人も多いと思います。
実のところ、自我というのは、
あなたが思っているようなものではない可能性が高いです。
お話します。
特定の「思考」や「認識」じゃありません。
自我ってどういうものだと思いますか?
何か、特定の「思考」や「認識」だと思っている人は
多いんじゃないでしょうか?
例えば、「私はあの人が嫌いだ」という思考が出てきたとします。
その思考に対して、あなたは
「いやいや、私はそう思うべきではない。それは私のエゴだ。」
と思ったりします。
「私はあの人が嫌いだ」という思考や認識に対して、
それはエゴだというラベルを貼り付けるわけです。
トカゲのしっぽを切るように「自我」を切り落とそうとしていませんか?
そして、あなたはトカゲのしっぽを切るように、
特定の「思考」や「認識」を切り落とそうとします。
思い当たる節はないでしょうか?
誰しもがそういう経験をしていると思います。
でも、それは上手くいったでしょうか?
「私はあの人が嫌いだ」という思考がでてきたとして、
上手く、その認識を切り落とすことはできたでしょうか?
場合によっては、それは上手くいくかもしれません。
でも、上手く、その自我を切り落とせたとして、
あなたは満足するでしょうか?
特定の「思考」や「認識」を自我だと思うのであれば、
あなたの中は自我だらけなんじゃないでしょうか?
トカゲのしっぽは、また生えてくることになります。
あなたが自我です。
ちなみに、
なぜ、あなたはトカゲのしっぽを切るように、
自我を切り落とそうとするんでしょうか?
このことに自覚的でない人というのは結構多いです。
それは、「あなた自身」は特別だと思っているからです。
よくあるのは
「私は観察者(意識)であり、自我を観察する存在である」
という思い込みです。
僕も、こういう思い込みを抱えていたことがありました。
ほとんどの人が通る道だと思います。
でも、これは違うんです。
ハッキリ言えば、あなた自身が自我なんです。
あなたは、自分自身を意識や意志だと勘違いした何かです。
例えるならば、
テレビのディスプレイの中に映し出されている、
映像としての、ディスプレイみたいなものです。
あなたは、意識(観察者)として、
自分の中で起こることに気がつくことができると思うかもしれません。
でも、そんなあなたも、
本当の意識(観照者)によって気がつかれている存在なんです。
自我によって、
意識の中で、意識のようにシミュレートされている存在。
それがあなたです。
こう言われても、
「え?どの自我のことを言ってるの?」という反応になる人は多いと思います。
僕もそうでした。
それぐらい、
自分自身が自我そのものであるということを受け入れることは、
難しいことです。
そうして、
あなたは自分自身の一部に自我というラベルを貼り、
トカゲのしっぽを作り出します。
そうしている間は、
あなたは観察者であり意識であるというフリができるからです。
でも、実のところ、自我と心と観察者は同じものです。
自我の目的は、この人生と言う名のゲームを成り立たせること。
自我には明確な目的があります。
それは、この、
人生という名のゲームを成り立たせることです。
真理は、「あなたは個人ではない」ということです。
でも、人生にはたくさんの個人が登場してきますよね。
少なくとも、そう見えます。
自分自身が個人であり、
周りにも他者である個人がたくさんいるという状況でなければ、
なかなか人生は成り立ちません。
登場人物がひとりだけの映画ってなかなかないですよね?
記憶を利用して、「あなた(個人)」「世界」というイメージを作りあげます。
自我は、記憶を利用して、
人生という名のゲームを成り立たせます。
まずは、舞台が必要です。
「世界」と言う名の舞台です。
人は生まれたとき、記憶を持っていません。
その時、気づいている範囲だけが世界のすべてです。
でも、記憶が蓄積されていくと、
自我はその記憶を元に、世界というイメージを構築していきます。
目にしたことがある景色を、
頭の中でつなぎ合わせるということをします。
例えば、iPhoneのカメラにはパノラマ機能がついています。
iPhone本体を少しずつ横にずらしていくと、
パノラマ写真が撮れるようになっています。
横にずらしながら撮影した複数の写真を、
合成してパノラマ写真にしているんです。
これは、iPhoneが記憶媒体を搭載しているからできることです。
記憶媒体をもたない、
フィルムカメラではこんなことはできないでしょう。
自我が記憶を元に作り上げる世界というイメージは、
この仕組みに近いものがあります。
まあ、もっと巧妙ですけどね。
人は、気がつける範囲でしか、
世界に気がつくことができません。
見えている景色、それが世界のすべてです。
それは、赤ちゃんだけでなく、
記憶を持つようになっても同じです。
でも、世界というイメージが構築されると、
気がついていない範囲にも、
実際に世界が存在しているんだと思い始めます。
もう、思うというレベルではなく、
確信していますよね。
その確信を持たせることが、
自我の仕事だとも言えます。
そして、あなたは、
実在する世界の中で、
自分は個人なんだと勘違いするようになります。
生まれたとき、
あなたは意識そのものです。
世界を超えた存在です。
あなたは全体です。
赤ちゃんは生まれた時、
自分自身を赤ちゃんだとは思っていないでしょう。
でも、それだと人生という名のゲームにならないので、
自我は、あなたを、個人だと勘違いさせるという仕事をします。
この時も、自我は記憶を利用します。
例えば、親に「もっと頑張らなければだめよ」と言われた記憶があれば、
自我は、その言葉と、あなたの体を結びつけます。
どんな出来事であれ、記憶は、
あなたを個人として存在させるために利用されます。
そして、あなたは、
たくさんの認識を抱えるようになります。
「私は頑張らなければいけない」
「私は優しくなければいけない」
「私は寂しい」
「私は特別な存在である」
「私の名前はタカシ」
「私はラグビーが好き」
「私はこの体である」
「私は足が速い」
「私は弁護士になりたい」
「私は死にたくない」
などなど、例を挙げるならこんな感じですが、
重要なのは、すべてが「私(体・心)」と関連付けられていることです。
あなた自身で、関連付けたでしょうか?
気がついたら、勝手に関連付けられていたんじゃないでしょうか?
もちろん、中にはあなた自身で関連付けたと思えるものもあるかもしれません。
「私は弁護士になりたい」とか。
でも、そのほとんどは、
自我によって勝手に関連付けられているはずです。
「私は体である」
この認識は、あなた自身で関連付けたものでしょうか?
3歳ぐらいになって、物心ついたころには、
すでに抱えていた認識なんじゃないでしょうか?
これは、自我による仕事です。
その世界の中で、あなたは、心地のよい感情を追求します。
自我によって構築された、世界というイメージの中で、
あなたは、特別な個人であることを追求します。
なぜなら、それは心地の良いことだからです。
特別な個人でいられる場合、
心地よい感情が胸に現れます。
「楽しい」とか「嬉しい」という感情ですね。
反対に、ショボショボな個人でいる場合には、
「怒り」とか「悲しい」という感情が胸に現れます。
まあ、実際にはもっと感情は複雑ですが。
実は、感情というのも、
自我によって生み出されています。
自我というのは、
ハートにフタをするように存在しています。
ハートというのは、
あらゆる潜在性と何も無さを併せ持つ、すべての源です。
世界を超えているはずの真我が、
この世界の中で顕在化した姿です。
なぜだか分かりませんが、
それは、胸の、感情を感じる部分に位置しています。
ハートは、それ自身で至福に満たされています。
そして、あなたは、本来ハートそのものなんです。
今だってそうです。
でも、きっと、あなたはそうは感じられないでしょう。
どこか欠けた感覚、
満たされない感覚を感じているはずです。
それは、なぜかと言えば、
自我がハートにフタをするように存在しているからです。
自我が、ハートから湧き出る至福をさえぎっているんです。
そして、その代わりに、
喜怒哀楽の感情をあなたに提供します。
あなたは、そのことに気がついているでしょうか?
あなたが、感情に反応し続ける限り、
自我は、この人生という名のゲームを成り立たせることができます。
感情と世界には関連性があるからです。
特定の出来事が、特定の感情に結びつきます。
過去の記憶は分かりやすいですよね。
特定の過去の記憶を思い出して、苦しむことってありますよね?
原因が分からない苦しみや不安にだって、
実は原因があります。
未来に対するあなたの認識が、
苦しみや不安を生み出すことがあります。
ただ、自分がそういった認識を抱えているということに、
気がついていないことが多いだけです。
そうやって、あなたは、
世界の中の個人として、心地よい感情を追い求め、
苦しみを避けようとします。
これが、自我の仕組みです。
この、人生という名のゲームの仕組みです。
あなたは、自我を切り落とそうとするかもしれませんが、
あなたが感情に反応し続ける限り、それは不可能です。
じゃあ、どうすればいいのか?
次回「探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する」に続きます。