一般的には、瞑想状態というのは素晴らしい状態なのであって、その状態を続けることが悟りにつながっていくと思われているかもしれません。確かにそうだとも言えるのですが、そもそも、〝瞑想状態〟ってどういうことなんでしょうか? このことは結構あやふやなのではないかと思います。
人によっては、瞑想状態とはマントラを唱えている状態かもしれません。はたまた、ヨガのポーズをとっている状態かもしれません。はたまた、坐禅を組んでいる状態かもしれません。瞑想状態には様々なバリエーションがありますが、共通して言えることは、一種の集中状態だということなんじゃないかと思います。「瞑想とは集中することだ」という言葉に納得する人も少なくないと思います。
でも、本当にそうなんでしょうか? もしそうなのであれば、瞑想状態というのは、一種の不自然な状態だとも言えるかもしれません。極端なことを言えば、マントラを唱えたり、ヨガのポーズをとったり、坐禅を組みながら日常生活を送ることはできないわけです。ブツブツとマントラを唱えながら道を歩いていたら少し頭がおかしい人になってしまいます。瞑想状態というのは、そういうものなんでしょうか?
瞑想とは集中することか?
「瞑想とは集中することだ」という考え方は、かなり根強いものがあると思います。なにしろ、瞑想を教える人は、まずは呼吸に意識を集中させたりするわけです。「瞑想っていうのは、呼吸に意識を集中させることなのね」って思うのは当然です。マントラにしろ、ヨガにしろ、坐禅にしろ、まずは何かしらに意識を集中させようとするのではないかと思います。
瞑想を実践し始めるとすぐに分かることですが、人は無自覚な考え事ばかりしています。その考え事を意図的に止めるというのは結構難しいことです。なにしろ、無自覚です。考え事をしているということに気がついていません。なので、意図的に止めようがありません。それをなんとかしようというのが、まずは瞑想の第一目的になることが多いのではないかと思います。無自覚な考え事をまずは止めようということですね。
そのための手段として使われるのが集中力です。呼吸に意識を集中できてるうちは、無自覚な考え事に陥るということはありません。でも、呼吸に意識を集中させることは、ある意味では退屈なことでもあります。集中力が続かず、気がつけば無自覚な考え事に陥ってしまっていることも少なくありません。でも、どこかの時点で、自分が無自覚に考え事に陥っていたことにハッと気がつきます。そして、気がついたらまた、呼吸に意識を集中しなおします。一般的に瞑想と呼ばれるものは、こういった行為の繰り返しです。
また、瞑想の種類が色々とあるのは、それぞれ別の効果があるというよりも、刺激の強度が違うという側面があります。例えば、呼吸に意識を集中させるのは強度が低いですが、マントラを唱えることはわりと強度が高いです。ヨガなどの身体を動かすことも強度が高いと言えます。当然、強度が高いほうが集中しやすいです。
長距離トラックの運転手は、常に瞑想状態なのか?
瞑想というと特別なことだと思うかもしれませんが、無自覚な考え事を抑えられるなら、集中する対象は何だっていいわけです。極端なことを言えば、車を運転することも瞑想になり得ます。例えば、高速道路を走る時、無自覚な考え事は止まっているんじゃないでしょうか? 合流地点では車と衝突しないように気をつけていなければなりませんし、車間距離、車線変更のタイミングなど、気にしていなければならない要素が色々とあります。無自覚な考え事に陥っている余裕なんてないわけです。なにしろ、時速100キロほどで走るので命に関わることです。それは、強度が高めの、瞑想のひとつの種類とも言えるかもしれません。
そして、車の運転が瞑想になり得るのであれば、長距離トラックの運転手は、とんでもない時間を瞑想に費やしているということになるんじゃないでしょうか? なにしろ、長距離トラックの運転手は、1日10時間運転するということもザラでしょう。
僕は、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿に参加したことがあります。それは、1日10時間の瞑想を10日間続けるというものです。合計100時間にもなるので、参加してみたいけど気が引けるという人も少なくないかもしれません。それが、長距離トラックの運転手の場合、1日10時間の運転を、仕事として年間250日とか行うことになります。車の運転が瞑想になり得るなら、年間2500時間もの瞑想時間を確保できるということです。圧倒的です。
もし、それで悟れるのであれば、探求者は坐って瞑想している場合ではなく、運送会社に就職して、高速道路を激走するべきなのかもしれません。でも、そうはなりませんよね。
集中力が求められる瞑想状態は、不自然な状態です
一般的に言えば、瞑想状態というのは、思考が収まって静かに集中した状態を指すかもしれません。そして、その状態になるための手段は色々とあるわけです。呼吸への集中もそうですし、マントラやヨガもそうです。車の運転もそうですし、スポーツだってそうだと言えます。スポーツの世界では集中力が極度に高まった状態をフロー状態と言ったりもしますが、それは瞑想状態と言うこともできるかもしれません。
でも、その状態は不自然な状態なんです。それは、素晴らしい状態かもしれませんが、それは不自然なんです。その状態が続くことはありません。集中力が切れたなら、その状態は終わります。瞑想をめぐって勘違いが起こりやすいのは、「瞑想のゴールは、瞑想状態(集中した状態)をずっと維持できるようになることなのでは?」と思ってしまいがちなところです。瞑想を教える人の中にも、そう思っている人は意外といるんじゃないかと僕は思っています。でも、そんなことは不可能です。不自然なものは不自然なんです。そこをゴールにしようとすると、いつまでたってもそこにたどり着けません。それは蜃気楼みたいなものだからです。
例えば、1日中運転し続けることができるようになることが、瞑想のゴールでしょうか? そんなことは不可能ですし、不自然です。その前に、身体が持ちませんし、おそらく精神を病んでしまいます。車の運転は、その危険性と引き換えに、強制的に瞑想状態を引き起こしているだけです。
もしかすると、呼吸への集中なら、1日中の実践も可能なんじゃないかと思う人もいるかもしれません。それなら、日常生活の中でも、なんとか実践できそうに感じるかもしれません。マインドフルネス瞑想などはその方向性でしょう。でも、それだって不自然であることに変わりはありません。大事なのは、無自覚な考え事に陥らないことなのであり、瞑想するという行為が大事なわけではないんです。あくまでも、瞑想というのは、無自覚な考え事に陥らないための手段でしかありません。
(関連記事:サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスの違い)
自然な状態が、本当の瞑想です
瞑想には様々な種類があり、それぞれ、副産物的な効果があったりもします。例えば、マントラを唱えるなら、超能力が得られることもあるかもしれません。それはヨガにも言えます。瞑想の第一目的というのは、無自覚な考え事に陥らないようになるためであり、瞑想という行為はその手段です。でも、人はともすれば瞑想の副産物に執着してしまうことがあります。瞑想することによって得られる集中力が、悟るためにも副産物を得るためにも大事なものなのではないかと勘違いしてしまうんです。
そういった方向性に向かうと、瞑想に出口は無くなってしまいます。一体、どこまで集中力を高めればいいんでしょうか? 超能力を身につけることが悟りでしょうか? 僕は、その方向性で出口に達したという人に会ったことがありません。大抵の場合には、「この延長線上に悟りがある」という憶測が聞けるだけです。
そもそも、方向性が間違っているんです。不自然な状態は、いくら追求しようが不自然でしかありません。瞑想のゴールは、瞑想を止めることです。無自覚な考え事に陥ってしまいがちなのであれば、瞑想することは効果的です。でも、無自覚な考え事に陥ることが無くなってきたのなら、瞑想は止めてしまってもいいんです。「瞑想するという行為が大事なんだ」と思い込んで瞑想に執着する必要はないんです。
瞑想は適材適所です。もし、どうしても無自覚な考え事が止まらないなら、車に乗って、夜の首都高速でも激走してみればいいんです。無自覚な考え事は止むはずです。そして、だんだんと刺激の強度を低くしていってもいいんです。マントラを唱えてみたり、ヨガをしてみたり、呼吸に意識を集中してみたり。最終的には、「瞑想をするまでもなく、無自覚に考え事に陥ってしまうことが無くなってきたな〜」と思うようになります。そうしたら、瞑想は止めてしまってもいいんです。
瞑想しようとすることなく、思考が収まり静かになっている状態、それが本当の〝瞑想状態〟です。これ以外に自然な状態はありません。日常生活の中に持ち込める瞑想はこれだけです。一般的には〝瞑想〟という言葉は様々な瞑想方法を意味しますが、本当の意味での〝瞑想〟という言葉は、多様性の無いひとつの自然な状態を指します。
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