今回は退屈についてです。
退屈するのが好きという人はほとんどいないと思います。
退屈は、哲学の題材としてもよく取り上げられるぐらい、
世の中的には苦しいものと認識されています。
でも、本当にそうでしょうか?
お話します。
寝るのは退屈か?
まず最初に、聞いてみたいことがあります。
睡眠中に退屈を感じたことってありますか?
すべての人がNOと言うのではないでしょうか。
「退屈どころか、楽しいとか苦しいとかそういったものすべてを感じないよ!」
そうなんです。
僕たちは睡眠中には退屈を感じることがありません。
客観的にみると、
睡眠ってとても退屈そうにみえるんですけどね。
だって、ただベッドの上に横たわっているだけなんですから。
ものすごく退屈そうです。
なので、寝る前に何かに没頭しているとき、
「寝たくない!」と思うことはあると思います。
僕は中学生のころはすごいテレビゲームにハマっていました。
特に、ウイニングポストという競馬ゲームにとてもハマっていたんです。
ハマっているときは徹夜をすることもよくありました。
だって、寝てしまうとゲームにハマっている自分がいなくなってしまうからです。
寝てしまうのがものすごく退屈そうに思えるからです。
でも、実際に寝ている最中には退屈を感じることはありません。
起きているときにだけ退屈することができる。
そうなんです。
僕たちは退屈を避けようとしますが、
実際に退屈をするのは起きている間だけなんです。
ということは、寝ている時と起きている時の間の違いの中に、
退屈を感じるという原因がありそうです。
寝ている時と起きている時、何が違うんでしょうか?
まず、意識があるかないかですね。
寝ているときは意識がありません。
そして、心が働いているかどうか。
寝ているときは心が働いていない状態です。
そして、体。
寝ているときは自分の体を認識していません。
つまりは、意識、心、体のいずれか、もしくはいくつかの要素が、
退屈するということに関わっていると言えるんじゃないでしょうか。
体は退屈を感じない?
僕たちは退屈を感じると、
どういう行動をするでしょうか?
今、もっとも多いのはスマホいじりかもしれませんね。
LINEとか、YouTubeの動画をみたり。ニュースサイトをチェックしたり。
電車の中でなにもしていない人を見つけるほうが大変です。
僕も電車にのるとメールチェックだけはしちゃいますね。
メールがなければスマホをポケットにしまってボケっとしていますが。
あとはテレビも依然として人気ありますよね。
家にいるときはとりあえずテレビをつけておくという人も多いかと思います。
テレビの場合は退屈もそうですが、
寂しさをまぎらわすためにつけるとういう理由も強いかもしれません。
スマホとテレビ、2大退屈しのぎアイテムだと思います。
ちなみに、どちらも、体を動かす必要はありません。
スマホの場合は手を動かしますが、
退屈をしのげるほどの動きじゃないですよね。
ということは、体は退屈を感じることはないと言えるかもしれません。
だって、テレビの前でじっとしていても退屈はしのげるんですから。
心が退屈する。
ということは、退屈を感じるのに関わっているのは、
意識と心のどちらか、もしくはどちらも、という可能性が高いです。
結論から言ってしまうと、退屈するのは心です。
心というのは、いろんな考えや、イメージの束のようなものです。
いろんな思考の集合体みたいなものです。
そんな心は、外から刺激があると活性化します。
例えば、LINEで友達からメッセージが届いたとき。
外部からの刺激です。
「なんだろう?」って興味がわきますよね。
で、さらにメッセージ本文を読んでみる。
「今度の日曜日に表参道のエッグスンシングスに行かない?」って書いてあります。
さらに刺激が追加されます。
「お!エッグスンシングスか!いいね〜!」って思って、
返事とスタンプを送信します。
ちなみに、エッグスンシングスというのは、
エッグベネディクトという卵料理が有名なハワイ発祥のカフェレストランです。
そうなんです。LINEでの友達とのやりとりは刺激的なんです。
心が退屈せずにすみます。
ニュースサイトやテレビもそうですよね。
飽きることによる退屈は避けられない。
でも、人は飽きる動物です。
どんなことにもだんだんと飽きてきますよね。
いままで飽きずにこれている物事ってあるでしょうか?
僕の場合、中学生のころはあんなに大好きだったウイニングポスト。
今では飽きてしまいました。
友達からのエッグスンシングスへのお誘いも、
「また、エッグスンシングスかよ〜。もう飽きちゃったよ。」ということに、
いつかはなるかもしれません。
ニュースサイトをチェックするのにも飽きてしまうかもしれません。
テレビにも飽きてしまうかもしれません。
そうして、だんだんと退屈をしのげるものが減ってきます。
飽きるスピードは人によって違ったりしますが、
だんだんと飽きてくるというのは間違いないでしょう。
ということは、
人はいつかは退屈から逃れられなくなるともいえるのではないでしょうか。
だって、スマホにもテレビにもラジオにも料理にもスポーツにも、
あらゆるものに飽きてしまったらどうでしょうか。
退屈から逃れる術はありません。
死とは究極の退屈。
そして、僕たちは死という究極の退屈から逃れることはできません。
ものごとに飽きることなく、
一生の間、退屈せずにいられたとします。
でも、かならず究極の退屈を味わうときがやってきます。
それは避けることができません。
だからこそ、死はこんなにも恐れられるのではないでしょうか。
だって、究極の退屈です。
数時間、数分の退屈だって避けたいものなのに、
死んでしまうと数時間どころではなく、
半永久的に退屈を味わうことになります。
(関連記事:僕たちは生きながらにして輪廻転生しているのではないか?)
生きているうちに退屈をじっくりと味わってみる。
ここで、ひとつ提案です。
生きているうちに、
退屈をじっくりと味わってみるというのはどうでしょうか?
死んでしまってからでは、
退屈をじっくりと意識的に味わうということはできません。
それをすることができるのは生きているうちなんです。
結論から言うと、
実のところ、退屈することに飽きるという現象がおきます。
不思議なんですけどね。
じっくりと退屈を味わっている間は、ものすごい退屈です。
なにかをしたくなります。苦しいです。
でも、そこをグッと我慢して、退屈をじっくりと味わうんです。
すべてのものに飽きてしまったという人は、
なにかをするにも飽きてしまっているので、
強制的に退屈をじっくりと味わうことになります。
でも、そんな状況もずっとは続かないんです。
退屈することに飽きている自分を発見することになります。
というか、退屈する心が消えていることに気づきます。
心が消えて、ただ、気づいている意識だけが残っている状態になるんですね。
これを経験すると、退屈が退屈ではなくなります。
むしろ心地よいことに気づきます。
そして、死への恐怖が少なくなってくるんですね。
だって、退屈を楽しめるようになってるんですから。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
まとめ
というわけで、
退屈を楽しめるようになったほうがいい理由についてお話しました。
退屈は避けられることが多いのですが、
退屈を楽しめるようになることは可能です。
退屈するというのも感情のひとつのようなものです。
楽しいと思う感情だって、苦しいと思う感情だって、ずっとは続かないですよね。
退屈だって同じなんです。
いつかは退屈を感じることに飽きるときがやってきます。
でも、退屈をじっくりと味わわないかぎり、その時はやってきません。
退屈に飽きることができないまま、
死という究極の退屈の中にはいっていくことになります。
これは怖いと思います。
なので、ぜひ、生きているうちに、
退屈を楽しめるようになっておくことをオススメします。
(関連記事:瞑想をすると死の恐怖は消えるのか?)