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探求が終わる前に書かれた記事

瞑想をすると死の恐怖は消えるのか?

人は生まれたならば、必ず、死ななければいけません。
だれしもに平等に訪れるもの。それが死です。

多くの人は死を恐れ、そして、死の恐怖から逃れられる方法を求めます。

そのひとつの方法として「瞑想」が取り上げられることがあります。
瞑想をすると、本当に死の恐怖は消えるんでしょうか?

反対に、死の恐怖が大きくなるかもしれません

瞑想をすると、反対に、死の恐怖が大きくなる可能性があると思います。

瞑想というのは、一般的には、何かを観察することのことを指すのではないでしょうか?
サマタ瞑想やヴィパッサナー瞑想や、他にも色々な瞑想があります。

サマタ瞑想の場合には、呼吸を観察します。
そうすることで、思考やイメージが勝手にでてくることを抑えます。

(関連記事:サマタ瞑想のもっともシンプルなやり方【止行】

ヴィパッサナー瞑想の場合には、体をちょっとずつポイントをズラしながら観察していきます。
そうすることで、思考やイメージが勝手にでてくることを抑えます。

また、瞑想法によっては、あえて思考やイメージを膨らませるものもあります。

光に包まれるようなイメージとか、ブッダやイエス・キリストやヒンズー教の神様など、信仰対象が本当に目の前にいるかのようにイメージする瞑想だってあります。

瞑想しようとする「自我」が死の恐怖の「原因」だからです

瞑想している間はいいかもしれません。

最初のうちはなかなか上手く瞑想できないかもしれませんが、段々と思考やイメージが勝手にでてくることが少なくなってきます。
もしくは、物凄くリアルに思考やイメージをすることができるようになるかもしれません。
(僕はあまりイメージをする瞑想をしたことがないのでよくはわかりませんが)

そうすると、至福感や恍惚感を感じられるようになってきます。
サット・チット・アーナンダですね。

ハートのあたりにそれを感じられるようになります。

それはとても心地がいいものです。
その間は死の恐怖なんて感じないはずです。

でも、瞑想が終わったらどうでしょうか?
死の恐怖は無くなっているでしょうか?

「瞑想すれば死の恐怖から逃れられるから問題は解決したんだ」と思うかもしれません。

でも、実際のところは死の恐怖は消えません。
というのも、瞑想しようとする「自我」そのものが死の恐怖を感じるからです。

いってみれば、自我そのものが死の恐怖の「原因」なんです。

瞑想をすると、だんだんと自我が強くなります。
自我というのは「観察者」とも言えます。

観察者が強いほどに、見られる存在(思考やイメージ)は表に出にくくなります。
瞑想が上手くできるようになるということは、自我が強くなるということです。

そして、死の恐怖を感じるのは自我です。
死の恐怖は大きくなるのではないでしょうか?

瞑想には「観察する瞑想」と「黙る瞑想」の2種類があります

実は、瞑想には「観察する瞑想」と「黙る瞑想」の2種類があると思っています。

世の中で思われている瞑想のほとんどは「観察する瞑想」です。
サマタ瞑想にしてもヴィパッサナー瞑想にしてもそうです。

必ず、瞑想対象があります。
最初のうちは瞑想対象がなければ、心が作り出す思考やイメージに振り回されてしまうからです。

呼吸に意識を集中させなければ、どこに意識を集中させればいいんでしょうか?
体に意識を集中させなければ、どこに意識を集中させればいいんでしょうか?

でも、瞑想が上手になってくると、どこかに意識を集中させなくても瞑想状態を保つことができるようになってきます。
観察者として心を観察する必要がなくなってくるとも言えます。

この段階になってはじめておこなえるのが「黙る瞑想」です。

自我として死を試みるのが黙る瞑想です

別の言い方をすれば「黙る瞑想」というのは「瞑想することを辞める」とも言えます。

「観察する瞑想」というのはとても分かりやすいです。
目を閉じて座ってジッとしていますからね。

瞑想のための色々な座り方もありますし、傍からみて「あっ、この人、瞑想してる」ってすぐにわかります。
公園を散歩しているときに芝生やベンチの上に座って瞑想をしている人を見かけたことがあります。

やっぱり、すぐに分かりますよね。

それに比べて、「黙る瞑想」というのはとても分かりにくいです。
傍から見ると、ただソファーに座ってるとか、ただ椅子に座ってるとか、ただ散歩しているという状態なんです。

言ってみれば、日常生活の一部として黙る瞑想をしているんです。
しているというか、勝手に黙る瞑想になってしまうというほうが正しいでしょうか。

でも、最初のうちは、この黙る瞑想をおこなうことには結構な困難がともないます。
というのも、自我が黙る必要があるからです。

観察する瞑想をしている間は、観察者として瞑想対象に集中します。
言ってみれば、自我にはやることがあります。

存在理由があります。

でも、黙る瞑想になると、観察する必要がありません。
どこにも意識を集中させずに、ただ黙るんです。

自我にとっては存在理由がない状態になります。

言ってみれば、黙る瞑想をおこなうということは、自我にとっては死を試みることに近いんですね。

OSHOが確かこんなことを言っています。

「瞑想を教えることは簡単だが、辞めさせることは難しい」

自分が存在しているという感覚は自我にあるわけではありません

最初のうちは黙る瞑想をおこなうことには困難がともないますが、慣れてしまえば、それは自然なものになります。

というのも、自我としての自分が黙っている時の方が心地が良いということを理解するからです。

人は心地が良い方に流れます。
それは自我も同じです。

黙る瞑想が心地よいのであれば、日常生活においても自然に黙る瞑想をおこなってしまうようになります。

ただ、自我は自分自身で自分を消すということはできません。

よく「自我を消す」とか「自我を殺す」とか「自我を失くす」とか「自我を明け渡す」とか「自我を手放す」という表現が使われることがありますが、自我自身でおこなえる最高の努力はただ黙ることです。

そして、黙る瞑想をしていると気がつきます。
自分が存在しているという感覚は、自我にあるというわけではないということにです。

むしろ、自我が黙っている時にこそ、自分が存在しているという感覚を強く感じます。

自分が存在するという感覚は、体にでも、心にでも、自我にでもなく、その背後にあるということに気がつきます。

主語がなく、ただ「在る」という感覚です。
そうなると、段々と死の恐怖は消えていきます。

まとめ

というわけで、瞑想をすると死の恐怖は消えるのかというお話をしました。

瞑想をすると、反対に、死の恐怖が大きくなる可能性があると思います。
というのも、瞑想をしようとする「自我」そのものが死の恐怖の「原因」だからです。

瞑想をすると自我が強くなります。
死の恐怖も大きくなるのではないでしょうか。

ただ、瞑想には「観察する瞑想」と「黙る瞑想」の2種類があります。

自我が強くなるのは観察する瞑想の方です。
自我が強くなって、心を観察するまでもなく瞑想状態を保てるようになってくると、黙る瞑想をおこなえるようになってきます。

黙る瞑想というのは、自我にとっては死を試みることと似ています。
そして、自我が黙っているときにこそ、自身の存在感を強く感じることに気がつくようになります。

ただ「在る」という感覚が強くなってきます。

そうなると、段々と死の恐怖が消えていきます。

(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?