自分自身を「明け渡す」とか「手放す」ことはできません

探求の世界では「明け渡す」とか「手放す」という言葉が良く使われたりします。

例えば、「エゴを手放す」とか「思い込みを手放す」とか「神に自分自身を明け渡す」とかですね。

でもでも、自分自身を「明け渡す」とか「手放す」ということはできません。

手に握ったミカンを手放すことはできます

2つの概念を登場させます。
「手」と「ミカン」です。

手が自分自身、ミカンが思い込みだとします。

「手」が「ミカン」を手放すことは簡単なんじゃないでしょうか?
ただ、手の握力を緩めるだけです。

そうすると、自然とミカンは手からこぼれ落ちます。
自分自身の思い込みを手放すというのはこんな感じです。

自分がどんな思い込みを持っているのかをきちんと自覚することができるのであれば、それは可能です。

じゃあ、手を手放すにはどうすればいい?

じゃあ、次です。

手を手放すにはどうすればいいんでしょうか?

手が何かを握っているのであれば、握るチカラを弱めるだけで、それを手放すことができました。
でも、手が手自身を手放すってどうすればいいんでしょうか?

「自分自身を手放す」という言葉は、実のところこの状況と同じようなものです。

右手で左手を手放す?

先日、うちの妻にこの問題を試してみました。
「手が手自身を手放すにはどうすればいいと思う?」って。

そうすると、うちの妻は「う〜ん」とかいいながら、右手で左手を触りながら「これが自我(自分自身)だったとしたら〜」とか言いだしました。
なかなか答えがでない様子です。

実のところ、多くの人はうちの妻と同じようなことをしています。

右手と左手、自分自身なのはどっち?

「これ(左手)が自我だったとしたらとか言ってるけどさ、もし、右手がそんなことを言うのであれば右手が自我なんじゃないの?」と言うと、妻は「?」という反応です。

「だって、これ(左手)が自我なんでしょ?」と言ってきます。

まあ、確かにそうなのですが、もし、そこに右手という概念が登場してくるのであれば、本当の自我は右手なんです。
左手は、言ってみれば「自我代理」みたいなものになります。

大抵の場合、こういったことは無自覚におこなわれます。
そのことを本人に指摘しても、大抵の場合には「?」という反応を示します。

それぐらい、自我は自我であることを辞める気はないということなんです。

表面的には「自分自身(自我)を手放す」と言いながら、巧妙に自分自身は存在しないものとして振る舞い、身代わりを立てて、それを手放そうとします。

ラマナ・マハルシはこう言っています。
「自我は、警察官のフリをして泥棒を捕まえようとする泥棒みたいなものだ」と。

手は手であることしかできません

実のところ、手は手であることしかできません。
手が自分自身を手放すということはできません。

もし、自分自身を手放したと思えるのであれば、自問自答してみてください。
「本当に自我を手放せたのか?」と。

きっとそこには、自身は存在していないというフリをした自我が存在しているはずです。

なにも握ろうとはしないこと

手は手であることを辞めることはできません。
でも、何かを握ろうとすることをやめることはできます。

例えば、目の前に美味しそうなリンゴがあったとしても、それを握らないでいるという選択はできます。

まあ、究極的に言えば、そんな選択肢すらないですけどね。

でも、自我としての自分からすれば、それは選択できるように感じます。
そして、そう感じるのであれば、実際になにも握らないでいることができます。

それが本当の明け渡しです

実のところ、自我としてなにも握らないこと、それが本当の明け渡しです。

こんなことを言うと怒られそうですが、良く言われる「神に自分自身を明け渡す」ということは、本当の明け渡しではないんです。

だって、明け渡した後にも自我が残りますよね?
神に明け渡そうとする自分自身が残ってしまうんです。

熱心にマントラを唱えて自我が消えた状態を経験するかもしれません。

でも、その時は神という概念すら消えているのではないでしょうか?

言ってみれば、自我と神という概念はセットなんです。

自我が神という概念を掴んでいる状態。
そのことを多くの人は「神に自分自身を明け渡す」と言います。

神という概念だけを残して、自分自身は消えるということは不可能です。
熟睡している間は神を想うことはできないことと同じです。

そして、本当の神というのは、自我で掴むということすらできません。
どうやって掴めばいいのか皆目検討もつかないんです。

テレビの中の登場人物が、自分が映っているテレビのディスプレイそのものを掴もうとするようなものです。
どうやって掴めばいいんでしょうか?

自我にできることは、なにも握らずに、握ろうともせずに、ただ黙るということだけです。

まとめ

というわけで、自分自身を「明け渡す」とか「手放す」ことはできないというお話をしました。

手に握ったミカンを手放すことは簡単です。
でも、手が手自身を手放すということはできません。

自分自身を手放すことはできないということです。

でも、自我は巧妙に自分自身を手放したフリをします。
自我代理という存在を作り出し、自我代理を手放すことによって、自分自身を手放したと言います。

これは無自覚におこなわれます。

でも、実際のところは自分自身を手放す必要なんかないんです。
そんなことはできません。

ただ、なにも握ろうとしないだけでいいんです。
それが、本当の明け渡しです。

ちなみに、神という概念を掴むのがいけないというわけじゃありません。

たくさんの概念に振り回されて自分自身を見失うぐらいなら、神という概念をしっかりと掴んでおいたほうがいいんです。
ただ、最後には神という概念すら手放す必要があるということなんですね。

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