真理の探求をしていると、様々な思想にふれることになるんじゃないかと思います。
様々な思想がありますが、大きく2つに分けるなら、二元論と非二元論(一元論)のどちらかに分けられるんじゃないかと思います。
例えば、キリスト教はどちらかといえば二元論的なんじゃないかと思います。
ヨガとかもそうでしょうか。
近年のスピリチュアルもおそらく二元論的でしょう。
一方、仏教はどちらかといえば非二元論的なんじゃないかと思います。
インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタもそうですね。
欧米で人気のあるノンデュアリティもそうですね。
今回は、二元論と非二元論の根本的な違いについてお話しようと思います。
思想の違いは表面的なもの。
二元論と非二元論の思想には、2つの大きな違いがあると思います。
世界の実在性と、魂の実在性の2つです。
二元論では、世界は実在していて、その世界の中を、魂が輪廻すると考えるんじゃないでしょうか。
一方、非二元論では、世界も魂も実在していないと考えます。
まったく真逆ですよね。
ただ、僕は、こういった思想の違いは、表面的なものなんじゃないかと思っています。
というのも、二元論を主張しながらも、「すべてはひとつ」と言う人もいるからです。
すべてはひとつなのであれば、世界の中を輪廻する魂は存在しないはずです。
魂という概念自体が、多様性を意味しているんじゃないでしょうか。
もちろん、言いたいことは分かるんです。
絶対的な「ひとつ」の存在があって、その中に、世界と魂という多様性があると考えるのだと思います。
その一方で、非二元論を主張しながらも、「アートマン(個人)は海水の1滴のようなもの」と言う人もいると思います。
すべての個人は分離しているように見えるけど、結局のところは同じ海水(ブラフマン)なんだよということですね。
この例えは、良く使われると思います。
この場合、二元論を主張する人も、非二元論を主張する人も、結局は同じことを言っているんじゃないでしょうか?
何か違いがあるのだとすれば、どちらの思想を信じているのかということだけなんじゃないでしょうか?
「この世界は実在していて、魂も実在している!」と信じているのか?
それとも、「この世界は実在していないし、魂も実在していない!」と信じているのか?
まったく真逆のように感じます。
でも、その概念を詳しく調べてみるならば、同じような内容になっていたりするのも、二元論と非二元論の不思議なところです。
人は、何を求めて行為をするのか?
人は、生きている限り、なんらかの行為をおこないます。
まあ、非二元論では、「私は行為していない」という言葉があったりするのですが、ここでは複雑になるので触れません。
僕も、今こうやって、Macbookの前に座ってブログを書くという行為をしています。
まったく何も行為しないという人は、寝たきりの人とか、なんらかの事情がある人を除けばいないでしょう。
僕は、二元論と非二元論の根本的な違いというのは、行為の目的にあると思っています。
あなたは、心地よい感情を得るために、行為を行うでしょうか?
それとも、そうするべきだから、行為を行うでしょうか?
行為をせずとも、求めているものはここに在るということを理解しているでしょうか?
もし、心地よい感情を得るために行為を行いたいと思うなら、おそらく、二元論に魅力を感じるんじゃないかと思います。
心地よい感情をもたらしてくれる世界は実在しているに決まっているし、その世界を永遠に輪廻し続けたいと思うかもしれません。
魂という概念に強く惹かれるんじゃないかと思います。
「解脱なんて興味ないよ。むしろ、輪廻転生したいんだから。」って思うかもしれません。
僕は、真理の探求をしている人の中でも、むしろ輪廻したいと思う人は少なくないんじゃないかと思っています。
表面的には、非二元論を信じているという人でも、実際のところは、輪廻したいと思っている人も、少なくないんじゃないかと思います。
なので、表面的に、二元論を信じるとか、非二元論を信じるということには、僕はあまり意味がないと思っています。
感情を求めるのか?感情を超えるのか?
多くの人は、世界と、個人としての体が、二元性を生み出していると思うかもしれません。
確かにそうなのですが、もっと根本的なことを言うならば、感情こそが、二元性を生み出している根源です。
もし、あなたに感情が無ければ、あなたは今のように世界に興味を示すでしょうか?
例えるならば、味覚が無くなってしまうなら、何を食べたって同じですよね。
アスパラガスは好きだけど、ピーマンは嫌いとか、そういったことは思わないはずです。
そもそも、味が無いんですから。
それと同じように、例えば、ハワイのワイキキのビーチでくつろいでいようと、刑務所の牢屋にいれられていようと、感情が無いのであれば、同じことのように感じるんじゃないでしょうか?
これは、理解することが難しいはずです。
多くの人は、ワイキキのビーチでくつろぎたいだろうし、刑務所にはいれられたくないはずです。
それは、当然のことと思うはずです。
でも、非二元論ではそうはならないんです。
ワイキキのビーチと刑務所に差はありません。
例えば、ラマナ・マハルシは、日常生活の大体の時間を、アシュラムの中のソファーの上で過ごしていたようです。
そして、こんなことを言っていたと思います。
「このソファーは私にとっての牢屋みたいなものです。」
実際のところ、何回か脱走したそうですが、その度に見つかって、帰るように懇願されて、最終的にはそれを運命と受け入れたようです。
こういう話をすると、「じゃあ、ラマナ・マハルシにも感情があって、牢屋にいれられるのを嫌がるんじゃないの?」と思うかもしれません。
それはその通りで、ラマナ・マハルシにも感情があったはずです。
ただ、大事なのは、「ラマナ・マハルシとは誰か?」というところです。
ラマナ・マハルシというのは、その体に付けられた名前なのであって、個人名です。
でも、ラマナ・マハルシを存在たらしめている根源には名前はありません。
その根源は、感情を超えていて、世界の影響を受けません。
ワイキキのビーチにいようが、牢屋の中にいようが、その根源は、それ自身で至福に満たされています。
その根源として在ることが、非二元論です。
なので、二元論や非二元論を、思考的に理解しようとすることには、あまり意味がないとも言えるんです。
感情を求め続けようとする限り、非二元論を信じていたとしても、実質的には二元論を信じているのと同じようなものだからです。
そして、二元論は決して間違ってはいません。
僕は、このブログでは非二元論を支持する立場をとることが多いですが、生きている限り、二元性は避けられません。
なので、表面的に見れば、覚者だって二元性の中にいます。
なんらかの行為をしますし、感情によって動いているかのように見えます。
その点において、覚者と、そうでない人には違いはありません。
ただ、違いがあるのだとすれば、求めているものが違うんです。
多くの人は、感情を求めて、世界に意識を向けます。
でも、覚者は、感情を超えた状態を求めます。
感情を超えるというと、なにか、超越的な状態をイメージするかもしれませんが、そうじゃないんです。
ただ、単純に、感情が無い状態にとどまるというだけです。
それは、多くの人にとっては、退屈な状態です。
人はそれを避けるために、感情を求めていると言っても過言じゃありません。
そして、二元論的な認識を、より強固にしていきます。
世界の中に喜びを求めて、死の恐怖の恐れから、魂という概念を信じるようになります。
退屈の正体を調べようとする人は、数少ないです。
一体、誰が退屈を感じているんでしょうか?
その人が居ない時、そこに退屈はあるでしょうか?
その人が、あらゆる二元性を生み出しているんです。
体の死を迎えることによって、その人も消滅します。
その人は、それを恐れます。
でも、恐れることなんてないんです。
そもそも、その人には実体がないんです。
そのことには、生きている間にしか気がつくことができません。
あなたは、体が死を迎えることによって、消滅する存在でしょうか?
それとも、体どころか、この世界をも超えた存在でしょうか?
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