一瞥体験とは、悟りを一瞥することだと言われます。
なので、悟り(真我実現)とは、一瞥体験がずっと続くようになることだと思う人も少なくないかもしれません。
でも、本当にそうなんでしょうか?
実際のところ、僕は一瞥体験を経ることによって真我実現をしたという人を知りません。
スッタニパータ、ウパニシャッド、ウパデーシャ・サーハスリーといった古典でも、一瞥体験という言葉がでてくることはありません。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジだって、一瞥体験という言葉は使いません。
であるなら、一瞥体験とは一体何なんでしょうか?
それは真我実現とどう関係しているんでしょうか?
一瞥体験は、悟りを一瞥することなのか?
一瞥体験とは、悟りを一瞥することだと言われます。
でも、単純なツッコミどころとして、「なぜ、それが悟りの一瞥だと分かるんだ?」というのがあります。
悟りとは何かを知っていなければ、そんなことが言えるはずがないんです。
順番があべこべです。
仮に、それが本当に一瞥体験だったとして、それが分かるのは本当に悟ってからです。
それまでは、それが本当に一瞥体験なのかは分からないはずなんです。
このことに自覚的でない人は少なくないかもしれません。
実際のところは、一瞥体験とは、自分の悟りというイメージに一致している一時的な神秘体験でしかないのかもしれません。
実際のところ、一瞥体験を重要視する人達は、神秘体験を引き起こす可能性が高いトレーニングや行為を推奨しがちなのではないかと思います。
例えば、マントラや、チャクラに意識を集中させるといったものです。
もちろん、それがいけないわけじゃありません。
でも、その目的が一瞥体験という名の神秘体験を引き起こすことなのであれば、悟りとは何かを理解することはできないでしょう。
方向性が間違っているならば、悟りに至るわけがないんです。
もちろん、1回でも一瞥体験できれば満足という人であればそれでいいと思います。
そういう人もいると思います。
でも、本気の探求者はそれでは満足することはできないでしょう。
ただ、道に迷うだけです。
実際のところ、僕も一時期は「一瞥体験をしなければいけないのでは?」と思っていたことがあります。
「意識を失ったかのように感じるサマーディを体験しなければいけないのでは?」と思っていたことがあります。
その先に真我実現があるんじゃないかと勘違いしていたんです。
でも、実際のところは、僕は一瞥体験をしたことがありませんし、その必要はないということを今は知っています。
生きている限り、この体は個人的な存在であり続けます
一瞥体験というのは、個人的な感覚が消失する体験なのかもしれません。
分離した感覚がなくなり、すべてがひとつであるかのように感じるのかもしれません。
はたまた、意識を失ったかのようなサマーディを感じるのかもしれません。
そうであるなら、悟りとは個人的な感覚が完全に消滅することだと思うかもしれません。
でも、そうはなりません。
そもそも、個人的な感覚とは何なんでしょうか?
個人的な感覚とは相対的なものであって、この体と、その他の何かが関わる時に、個人的な感覚というのは発生します。
その感覚が完全消滅するということはあり得ないんです。
生きている限り、この体は個人的な存在であり続けます。
それは、ラマナ・マハルシだってそうです。
例えば、「ラマナ・マハルシとの対話」の中に、ラマナアシュラムの所有権を巡って、役人とラマナ・マハルシが対話するシーンがあります。少し引用します。
尋問者:あなたは少年時代に家を去りました。あなたには家や所有物への執着心がなかったからです。しかしここではアーシュラマムの中に所有物があります。どうしてでしょうか?
マハルシ:それは私が求めたものではありません。資産が私に押し付けられたのです。私はそれを愛することもなければ嫌うこともありません。
尋問者:それらはあなたに与えられたのですか?
マハルシ:それらはスワミに与えられたのです。そのスワミが誰であれ。しかしこの世界の中では体がスワミと見なされています。その体がこれなのです。つまるところ、私ということになります。
ラマナ・マハルシはアシュラムという特殊な環境で暮らしていたので、社会性を超越した発言をすることも少なくなかったと思います。
(関連記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】)
でも、社会性が無くなるわけじゃないんです。
個人的な感覚が無くなるわけじゃないんです。
役人相手に、自分が体を持つ個人でもあるということを認めています。
そうであって当然なんです。
人と対話する時、言葉やイメージや記憶がともなう時、そこには個人的な感覚が発生しています。
それを否定する必要はないんです。
ただ、個人に限定されてはいないというだけです。
でも、悟るということは、個人的な感覚が完全消滅することだと勘違いしている場合、その感覚すら否定しようとしがちです。
一体誰がそれを否定しようとしているんでしょうか?
覚者が「あなたは存在しない」と言う時、名指ししているのはその人です。
言葉やイメージや記憶は個人の感覚とともに現れては消えていきます。
それは、「私は存在しない」と思い込もうとしているその人も例外じゃありません。
その人も個人の感覚とともに現れては消えているんです。
(関連記事:「私は存在しない」という言葉によくある勘違い)
真我実現は、錯覚が消えるだけのことです
悟るということと、神秘体験は関係がありません。
例えば、隠し絵ってありますよね。
有名なところではこんな絵があります。
若い女性にも、老婆にも見えるという隠し絵ですね。
あなたはどちらに見えるでしょうか?
どちらも認識できるでしょうか?
真我実現というのは、このことに気づくことに似ています。
それまでは、片方にしか気づくことができていなかったのが、真我実現すると、どちらにも気づくことができるようになります。
一体、何が変わったんでしょうか?
ただ、認識が変わっただけです。
絵そのものは何も変わってはいません。
真我実現しても何も変わらないというのはそういう意味です。
5感覚が超越的なものに変化するということはありません。
真我実現することは、天と地がひっくり返るようなものとも言われることがありますが、それは認識がガラッと変わってしまうからです。
言ってみれば、目が覚めるんです。
一方、一瞥体験というのは、この絵が動き出すようなものかもしれません。
この絵が動きだすなら、それは明らかに神秘体験ですよね。
でも、そのことと真我実現は関係していません。
もし、錯覚に気づくのであれば、それが一時的であることはないからです。
むしろ、絵が動いていては、隠し絵に気づきにくくなってしまいます。
隠し絵に気づくための唯一最短の方法は、黙って絵を観察することだけです。
意図的に観察するよりも、ただ眺めている方が気づきやすいかもしれません。
だからこそ多くの覚者は、「ただ、静かにしていなさい」と言います。
そして、覚者の言葉が理解しがたいのは、この錯覚を指摘するからです。
例えば、多くの人にとってはこの絵は若い女性に見えるとします。
その場合、覚者は、「この若い女性のチョーカーは唇のように見える」とか言うんです。
真我実現するとすべてが分かるようになるとか知識が増えると思うかもしれませんが、そうではなく、ただ、錯覚を指摘できるようになるだけなんです。
(関連記事:一瞥体験は必要でしょうか?それとも不要?)