今回は、脳と意識について少しお話したいと思います。
僕はあまり脳という言葉を使いません。
でも、だからといって、脳を重要視していないわけでもありません。
どちらかというと、僕は真理について語る人の中では、科学を重要視している方なんじゃないかと思います(それほど詳しくはないですが)。
真理の探求では、脳に先立って意識が存在していると考えられがちです。
でも、科学的には、脳が意識を作り出しているのではないかと考えられているのではないかと思います。
確かに、脳の周波数が落ちて、寝てしまっている時には意識は無いように思えます。
であるなら、脳が意識を作り出しているのではないかと考えるのは当然とも言えます。
でも、本当にそうなんでしょうか?
人は、簡単に「意識」という言葉を使いますが、そもそも意識とは何なのかを勘違いしているかもしれません。
意識とは5感覚のことか?
あなたが意識という言葉を使う時、それは何を意味しているでしょうか?
おそらく、多くの人にとって意識というのは、5感覚と密接に関係しているんじゃないかと思います。
特に、視覚の影響はかなり大きいのではないかと思います。
多くの人は、眼球に見えている範囲が、意識の範囲であるかのように感じるんじゃないでしょうか?
僕も、意識という言葉を使うときにはそのことを意味していることが多いです。
なので、熟睡中は意識は無いということになります。
であるなら、やっぱり脳が意識を作り出しているようにも思えます。
眼球単体では視覚を認識することはできませんよね。
眼球と脳が繋がっているからこそ、人は視覚を認識できるのではないかと思います。
聴覚だって、耳と脳が繋がっているからこそ認識できるんじゃないでしょうか?
臭覚、味覚、触覚だってそうでしょう。
多くの人は、実のところ、意識と5感覚を上手く区別することができないんじゃないかと思います。
「どちらも同じもののような気がするな〜」と思うかもしれません。
でも、実際のところは、意識そのものと5感覚は別物なんです。
ロボットは5感覚に気がつくことはできるのか?
最近は人工知能であるAIも発達してきています。
例えば、スマホなどに搭載されている、人の顔を判別するAIはかなり高い精度を誇っているんじゃないかと思います。
囲碁の世界では、グーグルが開発したアルファ碁(囲碁AI)に勝てる人間はいなくなってしまったようです。
この調子でAIが進化すれば、2045年にはシンギュラリティに到達するのではないかと予測する人もいます。
シンギュラリティというのは、AIが人類の知能を超える転換点です。
そこには、AIが意識を獲得することも含まれているように思います。
でも、そんなことは可能なんでしょうか?
仮に、人間そっくりに(それ以上に)思考するAIが開発されたとして、そのAIを搭載したロボットは、意識を獲得するんでしょうか?
もし、意識と5感覚が同じものなのであれば、そのロボットは意識を獲得することになるのではないかと思います。
ロボットの目は、目の前の風景を捉え、頭に搭載されたAIがそのデータを認識するはずです。
でも、そこには、本当に意識はあるんでしょうか?
もし、5感覚を認識していることが意識なのであれば、意識はそこにあるはずです。
でも、多くの人は、ロボットが意識を持つことに対して違和感を感じるんじゃないかと思います。
「それは、自分が感じているこの意識とは別のものなのではないか?」と思うんじゃないでしょうか?
ロボットは感情を感じるようになるのか?
脳は物質的な存在です。
まだまだ分からないことが多いようですが、研究していく余地はあります。
でも、感情というのは物質的な存在ではなく、脳以上に分からないことだらけのようです。
物質ではないので、物質的に研究していくということも不可能です。
今のところ、心理学が感情を扱う分野になっているのかもしれませんが、それは科学というよりも、統計といった学問に近いものがあるかもしれません。
だって、「こうなったら感情はこう動く」といった確かなことが言える人はいないはずです。
個人差が大きいですし、なによりも、それを可視化することができません。
客観的に認識することができないので、科学のようには研究しようがないのではないかと思います。
ロボットが人間以上のAIを搭載する時、ロボットは感情を感じるようになるでしょうか?
ロボットが5感覚を認識することはイメージできても、ロボットが感情を持つことをイメージできる人は少ないかもしれません。
感情という存在は明らかに異質です。
場合によっては、脳が感情をすら作り出していると思うかもしれません。
でも、どうやってそうしているんでしょうか?
脳の位置と、感情の位置は違いますし、そこがどうやって繋がっているのかというのは、科学的には分かっていません。
おそらく、科学的な視点から見るならば、感情というのは存在していないんです。
紫外線のように、単純に目に見えないというレベルではなく、そもそも、感情というのはこの世界には存在していない存在なんです。
なので、科学的に可視化することができていません。
でも、多くの人は、そんな感情を認識していますよね。
それはなぜなんでしょうか?
脳と感情は、どちらの方が気づく主体なのか?
脳と5感覚は、神経細胞によって繋がっているようです。
そのことは物理的にも確認できるのだと思います。
そして、脳は5感覚から得られる情報に対して、様々な反応をするのだと思います。
例えば、車を運転している時なんかには、眼球から得られる視覚情報を元に、脳が反応して、体にハンドルを操作させるのではないかと思います。
そこには明らかに関係性があるように思えます。
でも、脳と感情の場合はどうでしょうか?
科学的には、脳と感情の物理的な繋がりは確認できていません。
でも、人は、脳と感情が関連していることを認識しています。
例えば、特定の昔の記憶を思い出すと、嫌な感情がわき起こることがあります。
そこには、明らかに関連性があるように感じられます。
でも、どちらの方が気づく主体なんでしょうか?
脳と5感覚の場合には、脳の方が気づく主体なのではないかと思います。
例えば、眼球を失ったとしても、脳は活動していますよね。
眼球というインプット器官を失うだけであって、この世界の認識者たる脳自身は活動を続けます。
でも、脳を失った体は活動することはできないと思います。
そこには、明らかに違いがあります。
でも、脳と感情の場合はどうでしょうか?
どちらの方が気づく主体なんでしょうか?
脳の方が気づく主体なのであって、感情は5感覚のようにひとつの器官でしかないんでしょうか?
意識は、脳にではなく感情の中にある
おそらく、多くの人は感情よりも脳の方が気づく主体だと思っているのではないかと思います。
だからこそ、思考を使って感情をコントロールしようとするのではないでしょうか?
でも、それが錯覚だとしたらどうでしょうか?
例えば、眼球単体は、眼球自身には気がついていないはずです。
眼球が脳と繋がっているからこそ、眼球は自分自身に気がつくようになります。
目の前の風景にも気がつくようになります。
であるなら、意識の在り処は脳にあるということになるでしょう。
でも、多くの人は、眼球によって見える風景をまるで意識の範囲であるかのように錯覚するんじゃないでしょうか?
意識という機能が備わっているのは脳であるはずなのに、まるで、眼球にも意識という機能が備わっているかのように錯覚します。
この錯覚が、実は、脳と感情の間でも起こっていると言ったらどうでしょうか?
実は、脳自身は、自分自身に気がついていない可能性があると言ったらどうでしょうか?
それこそ、ロボットのようにです。
例えば、人は思考に没頭している時、そのことに気がついていないことがあります。
にも関わらず、気づくという意識は継続していますよね。
そして、ハッと自分が思考に没頭していたことに気がつきます。
2段階の気づきがあるんでしょうか?
実のところ、ハッと気づく前には、脳は脳自身に気がついていません。
そして、ハッと気づいた時に、脳は脳自身に気がつくことになります。
無意識という言葉が使われることがありますが、それは、脳が脳自身に気がついていない状態です。
でも、無意識であるにも関わらず、意識が継続しているなんてちょっと不思議じゃないでしょうか?
実のところ、脳は意識という存在によって気がつかれているんです。
脳が眼球に気がついているようにです。
意識というのは、「自分自身を指差してみてください」と言われた時に、多くの人が指差す場所にあります(この世界の相対性の中では)。
つまりは感情を感じる場所の中にあります。
とはいえ、感情そのものじゃありません。
感情は一時的な存在ですよね?
でも、感情はどこから現れているんでしょうか?
何も無いところに突如として発生しているんでしょうか?
それとも、感情の発生源があるんでしょうか?
実のところ、その発生源が意識です。
その意識によってなぜか脳が気がつかれ、思考やイメージや感情、意識自身(ハート)に気づくということが起こります。
そして、脳によって5感覚が気がつかれ、意識はこの世界を認識するようになります。
このことは科学的には確認することができません。
ただ、意識として、意識によって気がつかれている脳(意志)として、自分自身とは何かを探求していくしかないんです。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)