真理についての本を読んでいると、「すべては意識である」という言葉をよく見かけます。
本の帯に使われていたり、キャッチコピーに使われていたり、まるでそれが答えであるかのように扱われているのではないかと思います。
でも、ラマナ・マハルシは「すべては意識である」とはあまり言っていません。
もちろん、それに相当することは言ったりしているのですが、「私は誰か?」とか「心をハートに沈めなさい」という言葉のように多用はしていないのではないかと思います。
実のところ、ラマナ・マハルシは意図的に「すべては意識である」という類の言葉を使っていないフシがあります。
それは何故なんでしょうか?
確かに、すべては意識です
確かに、すべては意識なんです。
それは間違いありません。
「あるがままに」という本の中でラマナ・マハルシはこう語っています。
質問者:「ブラフマンは真理である。世界は幻想である」とはシュリー・シャンカラーチャーリヤ(シャンカラ)の常套句です。しかし、別の人たちは「世界は実在である」と言います。どちらが真実なのでしょうか?
マハルシ:どちらの言葉も真実である。それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。真理の探求者は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。それから彼は世界を非実在として捨て去る。なぜなら世界は変化するものだからである。このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探求者は究極的に真我にたどり着く。その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。
ラマナ・マハルシは「実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である」と言っています。
それはつまりは、「すべては意識である」と言っているようなものでもあります。
ただ、ラマナ・マハルシは単純に「すべては意識である」と言っているわけじゃありません。
「世界は幻想である」という言葉も真実であると言っています。
探求者からすれば「一体どっちなんだよ!」と思う部分ですね。
(関連記事:世界は幻想なのか?)
真理の探求者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう
ラマナ・マハルシが「すべては意識である」という類の言葉をあまり使わないのは、探求者の意識を内側に向けさせるためです。
ラマナ・マハルシはこう語っています。
真理の探求者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。他に道はない。ある人が、自分は実在であり、永遠に、すべてに偏在するブラフマンだということを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は非実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならない。なぜか? なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。真我を離れて宇宙は存在しないからである。人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものとして見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。
「すべては意識である」というのは確かに正しいです。
でも、答えを知るのと、なぜそうなのかを理解することは違いますよね?
例えば、真理について小中学生に教えるのであれば、「すべては意識である」という言葉だけを教えればいいのかもしれません。
「すべては意識である」と黒板に大きく書いて、「はい、ここテストに出るよ〜」と赤チョークで3重ぐらいに囲んでみてもいいかもしれません。
「真理とは何か?」というテストの問いに対して、「すべては意識である」という解答。
正解です。
小中学生相手にであれば、これでも良いかもしれません。
でも、大学の博士課程とかであればどうでしょうか?
例えば、ラマナ・マハルシが教壇に立つとして、生徒に「すべては意識である」という言葉を覚えてほしいと思うでしょうか?
それは表面的な教えであるということは明らかです。
そもそも、すべてとは何でしょうか?
意識とは何でしょうか?
どうしたら真理を理解してもらえるのか?
言葉の論理では真理を証明することはできません。
そうなると、「世界は幻想である」というところから入ってもらうしかありません。
世界ではない部分(多くの人にとって死角になっている部分)に気づいてもらうしかないんです。
そうすることで人は、意識とは本当には何かを理解することができます。
それまで人は、そもそも意識という概念について勘違いし続けます。
あなたは世界が実在であると主張したがっている
「すべては意識である」と教える人には2つの可能性があります。
1つめは、小中学生に向かって真理を教えている可能性です。
小中学生相手であればそれでいいかもしれません。
2つめは、本気の探求者に教えられるほどには自分自身が意識を理解できていない可能性です。
本当の意味で意識を理解しているのであれば、ラマナ・マハルシのように、単純に「すべては意識である」とは言いにくいものです。
その言葉が誤解を生むことは確実だからです。
もちろん、どんな言葉だって誤解を生み出します。
ただ、真理についての言葉というのは、心を喜ばせるためにあるわけじゃありません。
むしろ、その逆で、心に対して「あなたは実在しているわけじゃないよ(あなたが実在していると思っているものも)」と言うようなものです。
ある意味ではケンカを売っているようなもので、感情的な反発を受けるのは当然と言えます。
多くの人は世界は実在していると思っています。
「すべては意識である」という言葉はある意味ではそれを肯定する言葉です。
多くの人にとっては「世界は幻想である」という言葉よりも、「すべては意識である」という言葉の方が実感として受け入れやすいのではないかと思います。
逆説的に言えば、人は、自分の実感に合うように、自分好みの真理の言葉を選んでしまうという傾向もあります。
世界が実在していると感じているのなら(そう信じたいのなら)、それに合うような真理の言葉を選んでしまうんです。
ラマナ・マハルシはこう語っています。
マハルシ:あなたは世界が実在であると主張したがっている。その実在性の基準とは何だろうか? 何にも依存せずそれ自体で存在し、それ自身によって現すもの、そして永遠で不変なるもの、それが実在である。世界はそれ自身で存在するだろうか? 世界が心の助けなしに見られたことがかつてあっただろうか? 眠りのなかでは心も世界も存在しない。目が覚めれば心があり、世界が存在する。この不変の付随関係は何を意味するのだろうか? あなたは科学研究の基礎そのものと見なされている帰納法の原理を良く知っているだろう。世界の実在性についてのこの問いを、なぜこの一般的な論理の光のなかで解決しないのか? あなたはあなた自身について「私は在る」と言う。つまり、あなたの存在は単なる存在ではない。それはあなたが意識している存在である。実に、それは意識と同一の存在なのである。
質問者:世界はそれ自身を意識していないかもしれませんが、それでも存在しているのです。
マハルシ:意識とはつねに真の自己意識である。もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識しているのである。自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。それはまったく存在などではない。それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質そのものである。それはヴァストゥ(実在)である。それゆえ、実在はサット―チット、つまり存在―意識として知られており、単に他方を除いたものなのではけっしてない。世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。どうしてそのような世界を実在と言えよう?
多くの人は、自分が寝ている時にも、世界は存在していると思っているのではないかと思います。
「あなたが寝ている時には、あなたは世界に気がついていないよね? だから世界は実在していないんだよ」と言われても、「あなたの方が頭がおかしいのではないか?」と思うんじゃないかと思います。
この思い込みは相当に根深いものがあります。
例えるならば、世界が単独で実在していると信じることは、ディスプレイの存在無しに、映像が映像だけでそこに成り立っていると信じているようなものです。
そんなことは不可能ですよね?
もちろん、ディスプレイが存在していないかのように演出することはできると思います。
プロジェクターとかはそういった類のものですよね。
でも、プロジェクターだって、それを映し出すスクリーンや壁は必要になります。
ディスプレイと映像は必ず対になる関係性です。
不変の付随関係です。
映像はそれ単独では存在できません。
必ずディスプレイが必要になります。
でも、それが「あなたが寝ている時には、世界は存在していないよね?」ということになると、とたんに理解不能になります。
それがどういうことなのかと言えば、多くの人は、自分自身がディスプレイだという自覚がないんです。
「すべては意識である」という言葉を信じるならば、世界そのものがディスプレイであると思うでしょう。
空間そのものがディスプレイだと思うかもしれません。
であるなら、自分が寝ている時にも意識はそこにあると勘違いするでしょう。
そうじゃないんです。
正確に言えば、あなただけが意識なんです。
ラマナ・マハルシは、「自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である」と言っています。
「すべて」という概念に対して「意識」というラベルを貼り付けたとしても、それは意識なんかではないんです。
(関連記事:「すべてはひとつ」の「すべて」は何を指すのか?)
本質的に言えば、それは単なるイメージです。
それは属性的な存在でしかありません。
人は、いとも簡単にイメージを現実と錯覚します。
だからこそ、ラマナ・マハルシは「世界は幻想である」と言います。
まずはそこから始めさせます。
世界が意識ではないのであれば、意識とは何なんでしょうか?
ディスプレイとは何なんでしょうか?
ラマナ・マハルシが「すべては意識である」とはあまり言わない理由はそこにあります。
実在の知識に到達した人だけが「世界は実在である」という言葉の意味を正しく知ることができる
最後に、ラマナ・マハルシのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。
炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。心がマーヤーの邪悪な力から解放され、世界の知識を捨て去って無執着となり、自ら輝く至高の実在の知識に到達した人だけが、「世界は実在である」という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。
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