瞑想をすることで、反対に不安が増してしまう人のことを瞑想難民と言うそうです。
マインドフルネス瞑想が流行ったあたりから出てきた言葉みたいですね。
僕は、そういった人は反対に瞑想をするべきでないと思っています。
でも、大抵の場合には、瞑想そのものが悪いわけではなく、瞑想のやり方が間違っているからだと教えられることも多いようです。
確かに、そういうこともあるかもしれません。
でも、そもそも瞑想をする必要がない人に、瞑想が教えられるということも少なくないように思います。
その原因は、瞑想があまりにも万能であるかのように扱われているところにあるかもしれません。
そもそも、なぜ人は瞑想をするのか?
歴史的にみれば、瞑想を実践する人というのは、ごく一部の人々だけだったのではないかと思います。
宗教に属している人や、悟りを求めている人などですね。
瞑想がマーケティング的に扱われて、一般人の間で流行るだなんてことはなかったのではないかと思います。
でも、現代ではそういったことが起こっています。
もちろん、それがいけないことだとは思いません。
ただ、瞑想することの目的はかなりブレブレになってきているのではないかと思います。
ともすれば、ビジネスで成功するために瞑想を実践するという人も現れているわけです。
「むしろ、瞑想ってそういうものでしょ?」って思う人だっているかもしれません。
それと同じように、「瞑想することで人生が良くなる」「瞑想することで苦しみが消える」というふうに考える人も増えているのかもしれません。
瞑想を教える側も、そういった考え方に迎合していっているようにも思えます。
「瞑想というのは、本来は悟るためのものだけど、ビジネスに対しても、人生に対しても、苦しみに対しても良い影響があるよ」と、瞑想を万能であるかのようにアピールすることもあるのではないかと思います。
でも、本当にそうでしょうか?
瞑想は苦しみに対する処方箋にはなりません
僕は、瞑想というのは苦しみに対する処方箋にはならないと思っています。
瞑想難民になってしまう人が現れるのもそれが理由でしょう。
瞑想の語源は「薬」にあると言われることがあります。
瞑想は英語で言うとMeditation(薬を意味するMedicineの変形)だからです。
なので、瞑想は「万能薬」であると思う人もいるかもしれません。
でも、瞑想というのは漢字の意味で言えば、「冥土を想うこと」でもあります。
「冥土を想う」ということは、簡単に言えば、死んだ状態をシミュレーションするということです。
つまりは、瞑想の本来の目的は、死んだような状態になることだとも言えるんです。
ここに大きなギャップが生まれる可能性があります。
実のところ「瞑想をすることで苦しみが取り除かれますよ」という言葉と、「瞑想をすることで死んだような状態になりますよ」という言葉には大した違いがないんです。
でも、多くの人は、この2つの言葉が正反対であるかのように感じるんじゃないかと思います。
「苦しみは取り除きたいけど、だからといって死んだような状態になりたいわけじゃない……」と思う人は少なくないと思います。
であるなら、瞑想を実践しても、反対に苦しみは増すばかりかもしれません。
特に、本格的に「冥土を想うこと」を目指す瞑想ではそうなる可能性は高いのではないかと思います。
火事の中、瞑想する必要はあるのか?
僕は、苦しんでいる真っ最中だという人には基本的には瞑想をすすめません。
それは、火事の中で瞑想することをすすめるようなものだと思っているからです。
もちろん、瞑想と一口に言っても色々とあると思います。
本格的に「冥土を想うこと」を目指す瞑想もあれば、むしろ、スポーツに近い瞑想もあるわけです。
そしてまた、苦しみと一口に言っても色々あるわけです。
激しい炎に包まれて家が火事になっているかのような苦しみもあれば、庭の草がちょっと煙ってるぐらいのボヤ騒ぎ的な苦しみもあるわけです。
確かに、「瞑想をすることで苦しみが消える」と思えるようなこともあると思います。
スポーツに近い瞑想を実践することで、庭の草のボヤ騒ぎを一時的に忘れられるということはあるかもしれません。
ボヤ騒ぎ程度なら、放っておいても勝手に消える可能性もあります。
マインドフルネス瞑想は、スポーツまでいきませんが、体を動かしながら行う瞑想です。
なので、ボヤ騒ぎ程度の苦しみであれば、苦しみが消えたかのように感じられるかもしれません。
でも、それが激しい炎に包まれた火事のような苦しみだとしたらどうでしょうか?
自分の体の動きに気がつき続けるというマインドフルネス瞑想を実践することで、苦しみは消えるんでしょうか?
瞑想するのではなく、苦しみが燃え尽きるまで待つ
僕は、激しい炎に包まれた火事の中、マインドフルネス瞑想を実践することは本末転倒だと思っています。
それはマインドフルネス瞑想に限らずに、あらゆる瞑想がそうです。
でも、もし「瞑想は万能薬だ」と思い込んでいるなら、瞑想を実践し続けようとするんじゃないかと思います。
激しい苦しみの中、体の動きに気がつき続けようとするかもしれません。
呼吸に意識を向け続けようとするかもしれません。
マントラを唱え続けるかもしれません。
大抵の瞑想には、瞑想対象があります。
意識を向ける対象です。
その対象が瞑想の種類によって違ってきます。
でも、ここでひとつ質問です。
その苦しみを瞑想対象にしてはいけないんでしょうか?
苦しみという対象があるなら、それは瞑想になり得るはずです。
むしろ、それは「冥土を想う」という瞑想の本質に近いかもしれません。
でも、多くの人にとって、それは瞑想ではなくて、単に苦しむことなんじゃないかと思います。
僕は、苦しみの真っ最中にいるという人には、その「単に苦しむ」ということをすすめることが多いです。
その苦しみが燃え尽きるまで、待つことをすすめることが多いです。
燃え尽きてしまった苦しみには、もう苦しむことはできないからです。
多くの人は「飽きる」という感覚を知っていると思います。
それは楽しさだけに限定されるわけではなく、苦しみにも同じことが言えるんです。
もし、「どんな苦しみも瞑想することで消すことができる」という人がいるのならば、それは苦しみの正体を知らないのでしょう。
なぜ、苦しみだけ特別扱いするんでしょうか?
まるで楽しさを味わうかのように、苦しみも味わえばいいんです。
いつかは飽きてしまいます。
もし、激しい苦しみの中、瞑想することに執着してしまうなら、その苦しみは不完全燃焼になってしまうかもしれません。
それは、苦しみを長引かせるだけかもしれません。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)