今回は、Tさんから頂いた質問メールのやりとりを、公開いたします。
Tさん、ありがとうございます。
テーマは「あり得ない苦痛が存在する理由」についてです。
Tさんからの質問
山家直生様、初めましてハンドルネーム、Tと申します。
真我探求に関する質問はこちらで良いのですよね。
質問の内容が間違っていたり、答えられないようなものならごめんなさい。
私の質問は、なぜこの世にあり得ない苦痛が存在するかということです。
それこそ歴史を見れば残酷な処刑、拷問。
現在でも、児童虐待、動物虐待、いろいろあり得ない苦痛が存在します。
たとえこの世が夢のようなものでも、仮に、ではお前は夢のようなものなら切り刻まれてもかまわないのかと問われれば答えに困窮します。
わたしがもし体を切り刻まれるような立場だったらどうなるかと想像するとぞっとします。
こういう世界の異常な部分をどうとらえたらいいのか知りたいのです。
回答
Tさん
こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
確かに、この世には、あり得ない苦痛が存在すると思います。
例えば、僕は映画をよく観るのですが、レオナルド・ディカプリオ主演の「ブラッド・ダイヤモンド」という映画があります。
この映画の冒頭で、人の両腕が、斧で切断されるというシーンがあります。
僕は、そのシーンを見て、「もし、僕が、両腕を切断される立場だったとしたら、どう反応するんだろうか?」って考えたことがあります。
もちろん、冷静ではいられないはずです。
泣き叫ぶかもしれないし、失禁するかもしれないし、気を失うかもしれません。
もし、それが避けられるのであれば、全力で、それを避けようとするはずです。
実際のところ、どう反応するのかは、その時になってみないと分からないですけどね。
でも、それが避けられないことであれば、それを、受け入れるしかないんです。
例えば、イエス・キリストは、十字架にはりつけにされて、槍で突かれて死んでしまいました。
でも、僕は、疑問に思うんです。
イエス・キリストほどの人物なら、十字架にはりつけにされる前に、逃げることができたんじゃないかと?
最後の晩餐をしている暇があるのなら、逃げることができたはずです。
でも、イエス・キリストは、逃げませんでした。
むしろ、十字架にはりつけになって、槍で突かれるべきだと悟っていたに違いありません。
それが、運命なのであれば、それを受け入れるしかないんです。
こういったことは、あり得ない苦痛が存在する説明にはならないかもしれません。
でも、あり得ない苦痛というのは、一時的なものです。
死によって、あり得ない苦痛は、終わりを迎えます。
それは、救いでしょうか?
それとも、さらなる苦しみでしょうか?
この世は夢のようなものという言葉は、多くの場合、誤解されてしまいます。
この世は夢のようなものというのは、記憶やイメージは、現実ではないということです。
今、Tさんの目の前に、あり得ない苦痛は、存在するでしょうか?
それは、記憶やイメージの中にだけ、存在してはいないでしょうか?
この、5感覚を通じて感じることができる、この世と、記憶やイメージとしての、この世は、別ものです。
この、5感覚を通じて感じることができる、この世は、現実です。
それを、「夢のようなもの」と思い込む必要はないんです。
なので、「この世が夢のようなものなら、切り刻まれてもかまわないのか?」という問いは、ちょっと違うんです。
この問いでの、「この世」というのは、5感覚を通じて感じられる「現実」だからです。
切り刻まれていいわけがありません。
それが、避けられないものでない限りは。
もちろん、この5感覚を通じて感じることができる、この世に、あり得ない苦痛がやって来る可能性はあります。
でも、それは一時的なものです。
死がやって来れば、あり得ない苦痛は消滅します。
それは、救いじゃないでしょうか?
でも、そうは感じられないどころか、それはさらなる苦しみだと認識するのであれば、それは、記憶を失うことを恐れているのかもしれません。
そして、まさしく、その記憶が、イメージとしての「あり得ない苦痛」を、生み出しているんじゃないでしょうか?
死の恐怖と、記憶の関係性については、こちらの記事を読んでみてください。
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また、なにかありましたら、またご連絡ください。