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悟りと真理について

赤ちゃんは悟っているのか?【覚者との違い】

よく、「赤ちゃんは悟ってる」とか言われることがあると思います。

「赤ちゃんは、マスターだ」とか。

まだ、物心つかない子供とかもそうですね。

そう言われると、「じゃあ、赤ちゃんみたいになればいいのかな?」と思う人もいると思います。

でも、そんな必要はありません。

実は、赤ちゃんの悟りと、覚者の悟りは、似ているようで全然違います。

一体、どう違うんでしょうか?

気づきのない悟り。

赤ちゃんの悟りは、気づきのない悟りです。

確かに、表面的に見れば、そこには自我がなく、個人性がありません。

「タカシ〜!タカシ〜!」

って名前を呼んでも、それを自分の名前とは認識しないでしょう。

ただ、虚空を見つめるだけかもしれません。

それは、悟りの状態と言うこともできます。

赤ちゃんを「マスター」と呼ぶことができるかもしれません。

でも、そこには「気づき」がないんです。

正確に言えば、自分は気づきなんだということに、気づいていられる「気づきの力」がありません。

これは、致命的です。

数年後にやってくる、自我の芽生えに気づくことができません。

自我が芽生えることによって、個人性が生まれます。

子供は、3歳ぐらいになると、自我が芽生え始めます。

3歳の子供でも、結構、個性がありますよね。

「この子は、おしゃべり好きなんだな」とか。

「この子は、大人しいな」とか。

「なんか、この子は、納豆が好きなんだな」とか。

そして、自分の名前をしゃべり始めます。

「俺の名前はタカシって言うんだ!」とか。

「私の名前はチアキって言うの!」とか。

「ワイの名前はナオトって言うんだ!」とか。

まず、間違いなく、体との一体化が始まっています。

記憶も蓄積されはじめて、自分なりの、世界観というのもできてきます。

そして、自分は、その世界の中の、ひとりの個人なんだという認識が生まれます。

それは、疑いようのない真実として、受け入れられます。

「気づきの力」がないからです。

気づきの力というのは、自我がどういう動きをしているのかに気づける力です。

覚者というのは、当然のことながら、この「気づきの力」が強いです。

なので、自我が作り出す、世界という幻想を見抜くことができます。

でも、子供の場合、気づきの力が弱いので、自我がどう動いているのかに、まったく気づくことができません。

そして、気がつかないまま、大人になっていきます。

この様子を、舞台を例にお話してみます。

舞台で言えば、自我は、黒子です。

黒子というのは、全身黒ずくめの、まるで透明人間みたいに振る舞う人ですね。

影から、役者をサポートしたりします。

必要なものがあれば、「サッ」っと役者に渡したりします。

自我は、あなたを、役者に仕立て上げようとします。

なぜなら、あなたが役者であれば、黒子に存在理由ができるからです。

黒子は、透明人間です。

単独では、存在している意味がありません。

なので、あなたという役者が必要なんですね。

影からサポートすることができる、役者(個人)がいるおかげで、自我は存在することができます。

そして、影から、あなたを操ることができます。

もし、あなたが、黒子の存在に気がつくことができないのであれば、自分が、操られていることにも気がつけないでしょう。

例えば、黒子は、あなたの脳裏に、インドのイメージを「サッ」っと差し出したりします。

そうすると、あなたは、インドに行きたくなったりします。

自分の意志で、インドに行きたくなったんでしょうか?

それとも、なんとなくでしょうか?

そこに、選択肢はあるでしょうか?

人生というのは、こんな感じです。

選択肢はあるように見えて、実はないんです。

自由意志の感覚すら、黒子によって作られたものです。

であるなら、どうすればいいんでしょうか?

自我から、解放されるには、どうすればいいんでしょうか?

もちろん、「気づきの力」を強くするしかありません。

「気づきの力」が「自我の力」を凌駕することが悟りです。

舞台で言えば、「気づき」というのは、「照明の光」のことです。

「気づきの力」というのは、「光の明度」のことです。

つまりは、気づきの力が弱いということは、舞台が薄暗いということですね。

黒子は、舞台が薄暗い方が動きやすいです。

そのほうが、あなたに、気がつかれにくいですから。

薄暗い舞台というのは、黒子にとっての晴れ舞台です。

黒子は、自由に伸び伸びと活動することができます。

あなたを、役者に仕立て上げて、思い通りに操ります。

この状態は、あなたが、疑問を持つまで続きます。

「あれ?なにかがおかしい。この、満たされない感覚はなんだろう?僕は、一体何を求めているんだろうか?」

いつしか、あなたは、こういった疑問を持つはずです。

でも、それは、あなただけではなく、実は、黒子も、そういった疑問を持ちます。

薄暗い舞台というのは、黒子にとっては晴れ舞台です。

でも、それでは黒子は満たされないんです。

そうして、あなたは、黒子と一緒に、真理の探求を始めることになります。

真理の探求において、1番オーソドックスな修行方法は、瞑想なんじゃないでしょうか?

その他にも、マントラ、ヨガ、奉仕活動などありますが、その目的は同じです。

「気づきの力」を強くすることです。

気づきの力を強くするということは、光の明度を高めるということです。

気づきの力が弱い場合、舞台全体を明るく照らすということはできません。

なので、最初は、スポットライトを活用します。

照らす部分を、役者だけに限定して、そこに光を集中させることによって、明度を高めます。

それが、瞑想です。

そうすると、自分に起こっていることに、気がつきやすくなります。

黒子が、あなたの脳裏に、思考やイメージを「サッ」と差し出す瞬間を、目撃したりするようになります。

「あれ?思考とかイメージって、突如として、ポンッって現れるんだ?」

とか気づいたりします。

自分自身と、思考やイメージには、距離があるということに気がつき始めます。

それは「気づきの力」が強くなってきた証拠です。

そうなってくると、黒子は、おいそれと、あなたの脳裏に、思考やイメージを差し出すことが出来なくなってきます。

黒子は、薄暗いところだからこそ、活動できます。

明るいところでは、活動することが難しくなります。

そして、「気づきの力」が強くなってくると、スポットライトを活用せずとも、舞台全体が、そこそこ明るくなってきます。

瞑想せずとも、日常生活の中で、気づいていられる状態になってきます。

そうなってくると、黒子は存在し続けることができなくなります。

だって、バレバレですから。

舞台全体が明るくなっている中、透明人間のふりをして、出ていく黒子がいるでしょうか?

でも、だからといって、これで終わりというわけじゃないんです。

黒子は、巧妙な姿で存在し続けています。

舞台全体を、そこそこ明るくできる「気づきの力」が身につくと、「自分は悟ったのではないか?」と思い始めたりします。

おそらく、それは避けられません。

でも、よく見てください。

舞台上には、役者たる、あなたがいます。

その役者は、どんな姿をしているでしょうか?

よ〜く、観察してみてください。

仮面を被ってはいないでしょうか?

その仮面は、「私はこういう人間である」という思考やイメージの束で出来ています。

その仮面は、「記憶」で出来ています。

あなたは、その仮面を外すことができるでしょうか?

その勇気はあるでしょうか?

もし、「気づきの力」がさらに強くなるなら、その仮面は、実在しているわけではないということが、明確になってきます。

その仮面は、外されることになります。

仮面の下には、何が見えるでしょうか?

意外な人物が、そこにはいないでしょうか?

あなたは、黒子、その人なんじゃないでしょうか?

黒子が、記憶という名の仮面を被って、役者を演じていたんじゃないでしょうか?

このことに気がついてしまうなら、あなたは存在することが難しくなってきます。

他の黒子が消えてしまったように、あなたという黒子も消えていきます。

そして、舞台上には、誰もいなくなってしまいます。

にも関わらず、あなたは、存在しています。

舞台上に、誰もいなくても、そこには、存在しているという感覚があります。

舞台を照らす、「照明の光」が、そこにはあります。

舞台上の、あらゆるところに「照明の光」が遍在しています。

あなたは、それです。

赤ちゃんと、覚者の違いは、ここにあります。

赤ちゃんの場合も、舞台上には誰もいませんが、そこは薄暗いです。

そのことを指して、無明と言ったりします。

一方、覚者の場合には、そこは光で満たされています。

そして、さらに「気づきの力」が強くなるなら、気がつかずにはいられなくなります。

頭上に輝く、「光源」の存在にです。

自分自身が、その光源に照らされているということに、気がつかずにはいられなくなります。

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