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煩悩の意味をわかりやすく解説【欲望と違うのか?】

仏教には「煩悩」という言葉があります。

煩悩を捨てることが推奨されると思います。

でも、そもそも、煩悩って一体なんなんでしょうか?

多くの場合、煩悩とは欲望のことだと考えられがちです。

なので、煩悩を捨てるということは、欲望を捨てることだと理解している人も少なくないと思います。

でも、実際のところは、煩悩とは欲望のことでは無いんです。

煩悩という言葉は、サンスクリット語では「クレーシャ(kleśa)」と言うそうです。

クレーシャとは「苦しめる」「汚す」という動詞の名詞形だそうです。

つまりは、煩悩というのは、「苦しめる何か」「汚す何か」ということになるのかもしれません。

煩悩とは欲望のことじゃありません

煩悩というのは、欲望のことじゃありません。

でも、欲望が、煩悩になることはあるかもしれません。

一口に「欲望」といっても、煩悩になる欲望と、そうではない欲望があるということです。

多くの場合、この違いはなかなか認識されないのではないかと思います。

なにしろ、おそらくブッダ自身が、この違いを理解していなかったはずです。

それゆえに、ブッダは苦行に励んだのではないかと思います。

自身の欲を滅するために苦行に励んだのかもしれません。

自身の欲を滅するために、断食を続けたのかもしれません。

そして、瀕死のところを、スジャータに乳粥をもらって一命をとりとめたと言われています。

その後は、苦行も断食も止めてしまったようです。

つまりは、体が食事を求めるという欲、体が快適な状態を求める欲、というのを、そのままにするようになったということです。

もし、煩悩を捨てるということが、あらゆる欲望を捨てるということなのであれば、ブッダ自身が、煩悩を捨ててはいないんじゃないでしょうか?

煩悩とは、煩(わずら)わせ悩ませるもの

煩悩という言葉は、漢字の意味で考えるなら「煩(わずら)わせ悩ませるもの」という意味になるのではないかと思います。

サンスクリット語の「苦しめる何か」という意味ともほぼ一致するのではないかと思います。

煩悩という言葉は、欲望そのものを指す言葉ではないんです。

ただ、その欲望が、自身を苦しませ、煩わせ、悩ませることになるなら、それは煩悩になるのでしょう。

さきほどのブッダの話で言えば、「苦行をすることで欲を滅したい」という欲は、自身を煩わせ悩ませる煩悩になったのだと思います。

そして、ブッダは、その煩悩を捨ててしまいました。

何が煩悩になるのかは人それぞれ

仏教では、煩悩が細かく分類されているようです。

除夜の鐘が108回打ち鳴らされるのは、煩悩の数が108個あると言われているからですよね。

でも、煩悩というものは、そもそも、すべての人に共通のものではないんじゃないかと思います。

ある人には煩悩になるけれども、ある人には煩悩にならないということは多々あると思います。

例えば、ブッダにとっては「苦行をして欲を滅したい」という欲は煩悩になりましたが、そもそも、悟りや真理に興味が無いという人にとっては、欲にも煩悩にもならないでしょう。

また、僕は宝石に詳しくないので、巨大なピンクダイヤモンドの原石がそこらへんに転がっていたとしても、それに気づかずに素通りするかもしれません。

一方、宝石に詳しい宝石商であれば、目ざとくピンクダイヤモンドの原石に気がついて、歓喜するかもしれません。

一般的には、「宝石が欲しい」という欲は煩悩になると考えられるかもしれませんが、この時点では、その欲は煩悩にはなっていません。

むしろ、その欲は歓喜を生み出しているわけです。

でも、その後、その巨大なピンクダイヤモンドをギャングに狙われて、命を狙われるようなことになるなら、その欲は煩悩になるでしょう。

煩悩というのは、こういうふうに流動的なものです。

「これが煩悩だ!」という風に決めつけることは難しく、その因果関係を理解することによって、ようやくそれが煩悩なんだということに気がつくことができます。

すべての欲望を捨てようと思うなら、むしろ、煩悩にまみれます

煩悩というのは、自分で観察して発見していくものです。

仏教では煩悩を108個に分類しているようですが、そのすべてを覚えて、そのすべてを捨てていこうと考えるなら、むしろ、煩悩まみれになるはずです。

僕は、108個の煩悩を、ひとつも覚える気がありません。

そんなことをせずとも、自分自身の思考、行動、感情を観察していけば、何が煩悩になっているのかを突き止めることはできるからです。

ブッダは四諦を説いたと言われています。

四諦というのは、この世は苦しみである、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、その方法は、苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することであるという教えです。

(関連記事:四諦の道諦とは本当に八正道のことなのか?

この四諦の教えは、煩悩とは何かを突き止め、それを捨て去るための方法論だと言うこともできるんじゃないかと思います。

何が煩悩になるのかは、人それぞれ違います(最終的には共通した1つに突き当たりますが)。

なので、自身を観察していくことでしか、煩悩を捨てていくということはできないんです。

最後に、スッタニパータから、ブッダのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

(関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?

真のバラモンは、煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると固執することもない(795)