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ゴータマ・ブッダ

ブッダは、なぜ〝目覚めた人〟と呼ばれるのか?

ブッダは〝目覚めた人〟と呼ばれています。ブッダというのは、必ずしも、ゴータマ・シッダールタという個人を指すわけじゃありません。〝目覚めた人〟全員がブッダです。でも、なぜ〝悟った人〟ではなく〝目覚めた人〟というんでしょうか? 僕はその昔、そのことに違和感を感じたことがありました。「目覚めた人という表現だと、ただ単に、勘違いに気づくというようなニュアンスじゃない?」とか思っていたんです。むしろ、それでいいんですが、当時の僕は、悟るということに過剰な超越性を期待していたんです。

目覚めるということは、第三の目が開眼することを指すわけじゃない

悟りに対して、過剰な期待をしてしまうのは、僕だけじゃないと思います。探求の世界では、〝第三の目〟や〝サードアイ〟という言葉がでてくることがあります。それは、眉間にあると言われています。第三の目が開眼すると、肉眼では見ることができない、超越的な存在が見えるようになると言われたりします。そのことを指して〝目覚める〟という人もいるかもしれません。確かに、それはまさしく目覚めるという表現にピッタリです。

でも、ブッダが〝目覚めた人〟と呼ばれるのは、第三の目が開眼したからじゃありません。確かに、ブッダは神通力が使えたと言われるように、第三の目が開眼していたのかもしれません。僕は、第三の目に詳しいわけじゃありません。第三の目がムズムズとする感覚は、何回も感じたことはあります。特別、眉間に意識を向けたことはないのですが、突発的に、眉間に何かしらの反応を感じることはありました。でも、だからといって、僕は、世間一般的に言われるような、第三の目が開眼したというような能力は持ち合わせていません。妖精が見えたり、天使が見えたり、神々が見えたりということはありません。

でも、僕は、すべての人の第三の目は開眼していると思います。だって、すべての人は、肉眼では見えないものを見ているんです。例えば、記憶のイメージを見ているのは肉眼でしょうか? 肉眼にはそれは見えていないはずです。それを見ているのは、第三の目なんです。それは誰にでも備わっている能力です。でなければ、過去の記憶に悩むだなんてことは、あり得るはずがありません。

なので、僕は第三の目が開眼するということは、目の問題なのではなくて、イメージ能力の問題だと思っています。第三の目が開眼して、超越的な存在が見えるようになるということは、そういった存在をイメージする能力が高まるから(暴走するから?)と言うこともできるんじゃないかと思います。すべての人には、イメージする能力が備わっています。例えば、目の前に赤いリンゴを思い浮かべることもできると思います。人は、イメージする対象を、ある程度コントロールすることができます。でも、場合によっては、勝手にイメージが現れてしまうこともありますよね。過去の嫌な記憶が、連鎖的に思い出されてしまうということもあると思います。そういった無自覚な働きが、超越的な存在をイメージする方向に向かうなら、まさしく、第三の目が開眼したように感じられてもおかしくありません。

しかしながら、ブッダは、この世界は〝空〟だと説いています。それは、この世界には、実体を持った存在はひとつとして存在しないということです。それは、神々だって例外じゃありません。であるなら、〝目覚める〟ということは、〝第三の目の開眼〟のことでは無いんじゃないでしょうか?

ブッダは、この世界が〝空〟であることに目覚めた人

〝目覚めた人〟というのは、この世界が〝空〟であるということに気がついた人です。ブッダは、そのことに目覚めた人です。ブッダは、最古の仏典と呼ばれる『スッタニパータ』の中でこのように語っています。

つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を〝空〟なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。(1119)

ブッダは、死の恐怖を克服するために、王子の地位を捨てて出家して、探求を始めたと言われています。なので、仏典の中には、死を思わせる内容が結構でてきます。ここでも、「世界を〝空〟なりと観ずれば、死を乗り越えることができるだろう」と書かれています。でも、〝空〟とは一体何なんでしょうか? これは、仏教の中でも核心の部分だと思うのですが、僕が感じる限り、仏教の中でも〝空〟に対する解釈は分かれているのではないかと思っています。

よくあるのは、〝空〟とは空間や空気みたいなものであるという解釈です。これは、明らかに間違っているのですが、誰にでも分かりやすいという点においては、ある一定の意義はあるのかもしれません。言ってみれば、空間はディスプレイみたいなものであり、空間の中には、世界が有ったり、世界が無かったりするという解釈です。それでも、空間というディスプレイは常に在るということです。空間が意識であると解釈されることもあると思います。この体が死んでも、空間という意識は残るということですね。

一方、〝空〟は西暦100年頃に活動した、龍樹という人物によって体系化されています。龍樹は大乗仏教を起こした立役者で、『中論』という仏典を残しています。龍樹によれば、〝空〟はこのように説明することができます。

この世界は有るとは言えない。この世界は無いとも言えない。この世界は有ったり無かったりするとも言えない。

龍樹の特徴は、三段否定です。先ほどの空間の例で言えば、「世界というのは有ったり無かったりするんだよね」と言うことができたと思います。でも、龍樹はそのことを否定します。「世界は有ったり無かったりするとも言えない」と言います。そう言われたなら、どのように感じるでしょうか? 空間をイメージすることはできなくなるんじゃないかと思います。〝空〟という実体が否定されるんです。後には何も残りません。そしてまた、龍樹は〝無〟という実体があるわけでも無いと言います。徹底して実体という何かを否定していきます。ある意味では、龍樹は、イメージする対象を失った状態を〝空〟と言っているのかもしれません。

龍樹の『中論』は論理的に書かれており、数字がでてくるわけではないのですが、数学的な難しさがあります。例えば、「1+1=2」という数式は、何かイメージするまでもなく理解することができると思います。数字だけで完結してしまいます。赤いリンゴを2つ思い浮かべて、「赤いリンゴが1つと、赤いリンゴが1つだから、合計2つ」だなんてイメージする必要はないと思います。『中論』はそのように、何もイメージさせないまま論理性だけで話が進んでいくというようなところがあります。なので、理解が難しいです。

(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】

皮肉なことに、龍樹が説く〝空〟は、仏教の中で解釈される、あらゆる〝空〟の概念を否定してしまいます。仏教には唯識の思想もありますが、唯識の思想も、龍樹によって否定されてしまうでしょう。でも、仏教ではなぜか、ブッダ本人の〝空〟の思想が語られません。というか、資料が無いんです。最古の仏典と呼ばれる『スッタニパータ』の中でも、〝空〟という言葉が登場するのは、先ほど引用した一文だけです。ブッダ本人は、自身が存命中のうちは仏典を作らなかったし、作らせなかったようです。『スッタニパータ』でさえ、ブッダの死後、100年ほどたってから作られたものと言われています。そんなこともあって、ブッダが、この世界は〝空〟であるということに気づいたのは確かだと思いますが、その詳しい内容は、実はあまりよく分かっていないんです。

人は、どのようにしてこの世界が存在していると感じているのか?

ブッダは菩提樹の下で悟ったと言われていますが、教えを説くことをためらったとも言われています。この世界は〝空〟であるということは、この世界は実在するわけじゃないということでもあります。なんの説明もなく、「この世界は実在するわけじゃないんだ」と言ったとしても、〝目覚めた人〟ではなく、頭がおかしい人と思われるだけでしょう。

今は、ある程度はそういった考え方もあると認知されていますが、紀元前500年ほど前の当時は、かなり画期的な考え方だったんじゃないかと思います。当時もヴェーダの教えはありましたが、ヴェーダは〝空〟の思想ほどには、この世界の実在性を否定してはいません。少なくとも、ヴェーダには神々の世界が実在しているように感じさせる部分があります。ブッダの教えは、そういった神々の世界の実在性すら否定してしまいます。

なので、ブッダは、どのように説明するのかを考えたはずです。その結果でてきたのが、縁起の考え方なんじゃないかと思います。縁起については、初期仏典の『阿含経』などの仏典にも残っています(それでもブッダ本人の言葉じゃないようですが)。縁起というのは、すべての出来事は、縁によって起こっているのであって、その中に、実体は無いという考え方です。

例えば、目の前に世界があるように見えるのは、気づく働きと、眼球によって起こっているのであって、その縁が無ければ、世界も、気づく働きも、眼球も存在できないという考え方です。例えば、寝ている時(気づく働きが無い時)には、縁が無いので、世界も眼球もありません。「いやいや、寝ていても、世界と眼球は存在しているでしょ」と思うかもしれません。でも、寝ている時にそうイメージすることはできないんです。そしてまた、イメージというのは現実を担保できる存在ではなく、それはまさしく想像なのであり、実在するわけじゃありません。

もちろん、多くの人にとっては、世界というのは実在しているように感じられているはずです。でも、そのことを証明することは、実は不可能なんです。具体的にどうすれば、この世界が実在しているということを証明することができるでしょうか? グーグルマップを使えば、世界中の衛星写真を見ることができますが、それは世界が実在する証拠になるでしょうか? それは、映画の中の世界と何か違いはあるでしょうか? 映画を観ている間は、映画の中に世界があるように感じられます。でも、実質的には、それはディスプレイに映し出された映像でしかありません。この世界がそうではないと、どうやって証明することができるでしょうか?

もちろん、感情的には、世界が実在していないということは納得し難いことです。感情的には、明らかにこの世界は実在しているからです。でも、論理的に考えるならば、この世界が実在していることを証明することは不可能です。世界という全体を見渡すためには、記憶やイメージという補助が必要なのであって、記憶やイメージというのは、単なる想像なのであって、実在ではないからです。世界を実在だとみなすには、記憶やイメージというのは、実在を担保する存在であると仮定しなければいけません。そう考えると、縁起の考え方というのは、記憶やイメージに頼らない、非常にニュートラルなものの見方だということもできるんです。寝ている時(気づく働きが無い時)には、縁が無いので、世界も眼球も無いというのは、非常にニュートラルなものの見方なんじゃないでしょうか? そこに記憶を元にした認識が介入すると、「いやいや、そこには世界は無くとも、空間はあるんじゃない?」ということになったりもします。

ブッダが〝目覚めた人〟と呼ばれるのは、記憶と現実を識別することができるからでもあります。だからこそ、この世界が〝空〟であることに気がつけるとも言えます。多くの人は、記憶を現実であるかのように錯覚しています。むしろ、そうでなければ、この世界の中で、人間として機能することが難しいです。記憶という補助無しに、この世界の中で機能できる人間はいないでしょう。でも、だからといって、記憶と現実を同じものであるかのように勘違いし続ける必要もないんです。ブッダのように、この世界の中で機能しつつも、目覚めていることは可能です。そしてそれは、決して超越的なことじゃありません。

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