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心理学 悟りと真理について

悟りとは精神病の一種なのか?

悟りとは、精神病の一種なのではないかと思う人もいるんじゃないかと思います。その気持ちは、僕も良く分かります。僕自身、「もしかしたら、そうなのではないか?」と疑っていたことがあるからです。もし、そうなのだとすれば、悟りを目指すということに意味はないでしょう。でも、悟りは、精神病とは一線を画すものです。

悟りの定義によっては、そういう人もいるかもしれない

悟りを語る時に問題になるのは、「そもそも、悟るってどういうことなのか?」という定義です。多くの人は、なんとなく、悟るとはこういうことだ、というイメージを持ってるんじゃないかと思います。人によっては、超能力を使える人を、悟った人だと思うかもしれません。聖人みたいな性格の人を、悟った人だと思うかもしれません。ただひたすらに、坐禅をしている人を、悟った人だと思うかもしれません。

人は、自身のイメージに合致した人を、「悟った人」なのではないかと認識するんです。そして、悟りを目指す人も、知らず知らずのうちに、そういったイメージに引っ張られてしまうことがあるような気がしています。バイアスがかかってしまうということですね。例えば、人によっては、「私は存在しない」と本気で思えるようになることが、悟りなのではないかと思う人もいるかもしれません。そうすると、「私は存在しない」と思い込もうとしてしまうこともあるかもしれません。一種の自己暗示であり、自己洗脳です。その結果、「私は存在しない」という自己暗示にかかってしまう人もいるかもしれません。それは、悟りなんでしょうか? それとも、精神病なんでしょうか?

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「それは精神病なのではないか?」と思うことには、一理あると思います。それは、思い込みのような感じもするからです。少なくとも、それが悟りなのだということを、客観的には証明することができません。悟りにまつわる問題の難しさは、そこらへんにもあります。悟りとは、とても主観的なものでもあります。なので、「悟りは言葉では表現することができない」と言われるなら、そんなものかなとも思ってしまいます。それを信じられる人ならいいと思いますが、中には、疑う人も当然いるでしょう。

記憶と現実を区別できるようになることは、精神的な病なのか?

悟りには、言葉で表現できない側面があります。熟睡中のことは、言葉で表現できないのと同じです。でも、中には、ある程度は言葉にできる側面もあります。それは〝記憶〟です。僕は、誰にでも理解できる悟りの特徴として、記憶を持ち出すことが多いです。

記憶は、現実ではないんです。「何を当たり前のことを……」と思うかもしれませんが、ほとんどの人は、記憶を現実であるかのように錯覚しているんです。例えば、昔、沖縄に行ったことがあるとします。そうすると、多くの人は、その記憶を思い出して、「沖縄は存在している(なぜなら行ったことがあるから)」と確信を持って言います。そこに錯覚があるだなんて誰も思わないんです。でも、そこにあるのは、あくまでも、昔、沖縄に行ったという〝記憶〟です。人は、その記憶をまるで現実であるかのように錯覚していて、そのことに違和感を感じることもありません。

論理的に考えれば、記憶は記憶でしかないというのは当然だと思います。そのことに異論がある人はいないでしょう。でも、ほとんどの人は、記憶に対して、記憶以上の現実感を感じているんです。というよりも、ほぼ現実と同じものだと認識しています。なので、「そこには沖縄に行ったという〝記憶〟があるだけだよね(沖縄は存在しない)」と言ったなら、「いやいや、これから飛行機に乗って沖縄に行けば、沖縄が存在していることを確認できるよね?」と言い返されるはずです。確かに、飛行機に乗って沖縄に行けば、そこに沖縄が存在する可能性は高いと思います。でも、そのことと、記憶を現実であるかのように錯覚していることそのものは、話が別なんです。

例えば、その対象が沖縄ではなくて、世界だとしたらどうでしょうか? どこに行けば、世界が存在しているということを証明できるでしょうか? そんな場所は存在しないんです。人は、どこまでいっても、この世界を、部分でしか確認することができません。でも、多くの人は、世界は全体として存在していると確信しています。その根拠は、一体どこにあるんでしょうか?

世の中には、「思考は現実になる」という言葉があったりもします。そう思えるのは、まさしく、無自覚に、記憶を現実と同じもののように考えているからです。イメージできるものは、現実にもなると感じられているんです。でも、それは錯覚でしかありません。例えば、目の前にスマホをイメージしたとしても、そのスマホを手にとって、誰かに電話をかけるということはできませんよね。そのイメージは現実ではないからです。

この世にiPhoneが存在しているのは、その昔、スティーブ・ジョブズがiPhoneという製品をイメージしたからだと思うかもしれません。「思考は現実になった」と思うかもしれません。目の前に、ジョブズの遺作となったiPhone4sがあるならば、「このiPhone4sは、スティーブ・ジョブズがイメージしたものだ」と思うかもしれません。でも、ジョブズがイメージしたiPhone4sは、あくまでもイメージであり、そのイメージは、この現実のどこにも存在していません。確かに、ジョブズがそうイメージしたから、iPhone4sは製品化されたんでしょう。でも、ジョブズがイメージしたiPhone4sと、現実のiPhone4sという製品は、別のものです。ジョブズがイメージしたiPhone4sを手にとって、現実のiPhone4sに電話をかけるということはできないはずです。それが同一のものであるかのように感じられるのは、単なる思い込みなんじゃないでしょうか?

もちろん、この世の中では、そう感じられることが当たり前なのであって、正常だと判断されます。でも、論理的に考えるならば、それは錯覚であるということは明白なんじゃないでしょうか? 悟るということの一つの側面は、記憶は現実ではないということに気がついてしまうことです。記憶と現実を区別できるようになることは、精神的な病でしょうか? むしろ、記憶を現実であるかのように思い込んでいる方が、精神的な病と言えるんじゃないでしょうか?

悟った人は、論理性をあまり重要視しない

悟りには、論理的な話はあまり出てこないのではないかと思います。悟りについての話というのは、宗教的に語られることの方が圧倒的に多いです。信じることの重要性が説かれることの方が多いと思います。宗教の中でも、どちらかと言えば論理的と言われる仏教でさえ、『法華経』などの仏典を読んでみるならば、とても論理的とは言えません。〝空〟の思想を解説した、龍樹の『中論』は、論理性をかなり重要視した内容になっていますが、その内容を理解できる人はかなり少ないのではないかと思います。そしてまた、論理性にこだわりすぎて、悟りの本質を見失っている部分があります。龍樹は「一切のものは〝空〟である」と言いますが、その〝一切〟とは何かということに盲目です。確かに、この世界は〝空〟ですが、この世界は〝一切〟のものじゃありません。

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悟りは論理的に証明はできません。もし、それが証明可能であるなら、西洋哲学者が、とうの昔にそれを証明しているはずです。論理性の行き着く先は、哲学者であるヴィトゲンシュタインのこの言葉に集約されるのではないかと思います。著書である『論理哲学論考』の最後を締めくくる言葉です。

語りえないことについては人は沈黙せねばならない。

これは、結局のところ東洋哲学だって同じ結論なんです。なので、悟った人は、沈黙することを勧めることが多いです。ただ、東洋哲学では、その理由を、論理的にきっちりと説明しようとはあまりしません。僕みたいに、ある程度は論理的に説明しようとする人は稀です。というのも、宗教的に、「沈黙せよ」と言った方が話が早いからです。

また、論理的に説明しようとすると、相手によっては終わりが無いこともあります。西洋哲学は、ヴィトゲンシュタインによって一応の結論を得ているはずなのですが、今も、「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という言葉への反論が行われているんじゃないかと思います。沈黙しようとする人はいないでしょう。哲学への探究心はゾンビのように立ち上がり続け、終わりがありません。

悟りは、論理的には証明することができません。でも、だからといって、精神病の一種でもありません。沈黙することによって、何が起きるのかを言葉で説明することは難しいです。少なくとも、それは論理的ではないと思います。感覚的なことは、言葉では上手に再現できないのと同じです。そういった、感覚的で論理的ではない言葉を聞くと、「それは精神病の一種なのではないか?」と疑問に思うのは当然とも言えます。でも、悟りには、記憶と現実の区別のように、ある程度は論理的に説明できることもあります。もし、悟りが精神病の一種に思えるのであれば、まずは、自分自身が、記憶と現実を区別できているかを確認してみてもいいかもしれません。

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