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真我探求

真我実現した人が、再び、真我を忘れてしまうことはあるのか?

古典の中では、真我実現した後に、堕落していってしまう覚者の話があったりします。「真我実現するということは、絶対的なことであって、その後に堕落するだなんてことはあり得るの?」と思う人もいるかもしれません。稀だとは思いますが、そういったことはあり得なくは無いと思っています。というのも、個人的な感覚を持った自我が、不可逆的に、真我に変化するわけじゃないからです。

稀かもしれないけど、あり得なくは無い

自我には、実体があるわけじゃありません。自我という感覚は錯覚です。人は、いとも簡単に錯覚に陥ります。例えば、遊園地に行くと、世界一周を仮想体験できるようなアトラクションがあったりします。空を飛んでいる視点の映像に合わせて、座席を前後に傾けることによって、まるで、空を飛ぶ乗り物に乗っているかのように錯覚させることができます。人は、座席が後ろに傾くことにより背中に感じる重力と、加速することにより背中に感じる加速力の違いを、上手に識別することができません。

たまに、飛行機の墜落事故が起きたりすることがありますが、その原因が、その錯覚にある事例もあるようです。夜間で、視界が悪かったり、レーダーが故障していたりすると、パイロットにとっては、重力や加速力の感覚だけが頼りになります。その場合、地面に向かって下降している状態を、上空に向かって加速している状態であるかのように、錯覚してしまうことがあるようです。そう錯覚したまま加速すると、飛行機は猛スピードで地面に衝突することになります。

真我実現というのは、個人的な感覚というのは、錯覚であると自覚することです。でも、それは、個人的な感覚が消滅するということを意味するわけじゃないんです。空を飛ぶ乗り物に乗って、世界一周していると感じるのは錯覚です。でも、その錯覚に気づいたからといって、目の前の映像と、背中に感じる重力が消えるわけじゃありません。

人には、自然と〝自我実現〟していく能力が備わっている

人には、自然と〝自我実現〟していく能力が備わっています。誰に教えられるでもなく、ほぼすべての人が〝自我実現〟していくことになります。ともすれば、真我実現というのは、「とても神秘的なことなのではないか?」と思われることもあるかもしれません。でも、それと同じくらい〝自我実現〟していくということも、神秘的なことなんです。

なので、〝自我実現〟していく過程を理解している人は、ほとんどいないんじゃないかと思います。3歳頃になって、物心ついたころには、すでに自我が芽生えているんです。この体に、固有の名前が名付けられているということも理解します。例えば、「ぼくのなまえはつよしっていうんだ」とか言うようになります。〝自我実現〟です。

〝自我実現〟していく働きというのは、真我実現したとしても続くことになります。僕は、こういった働きを〝知性〟と呼ぶことが多いです。古典の中でも、〝知性〟と呼ばれることが多いと思います。でも、一般的な感覚でいえば〝無意識の働き〟と言ったほうが理解しやすいかもしれません。多くの人は、自分自身に無意識の働きがあることを自覚していると思います。そして、その働きを、自分の意志とは区別しているんじゃないかと思います。

真我実現とは、〝自我実現〟していく過程をさかのぼっていくこと

人はともすれば、意志を使って、無意識の働きをコントロールしたいと思ったりします。コントロールできるように感じられるんです。無意識とは、この意志の支配下にあるものであって、コントロールできるもののように感じられるんです。でも、実際のところ、無意識をコントロールできるという人はいるでしょうか?

実際のところは、逆なんです。だって、自我が芽生える前から、無意識の働きは機能しているんです。時系列的に考えれば、むしろ、無意識の働きが、自我という個人的な感覚を作り出したのではないかと考える方が自然なんじゃないでしょうか? 自我が無意識の働きを支配していると考えることは、子どもが自分の親を生み出せると考えるようなものです。それは、タイムパラドックスです。

それでも、人は感覚的に、「この自分は、この無意識の働きを超えている」と感じているんです。それは正しいです。でも、それは同時に、錯覚でもあるんです。多くの人は、自分には〝自由意志〟があると思っています。そして、そのことを〝自我〟とも呼ぶのではないかと思います。でも、実際のところは、〝自由〟と〝意志〟は別々のものです。〝自由〟とは真我のことなのであり、それは自分という存在感そのものです。一方、〝意志〟とは言語的な表現でしかありません。その両者が組み合わさることによって、〝自我〟という錯覚が起こっているんです。

真我実現というのは、〝自我実現〟していく過程をさかのぼることだとも言うことができます。自我は、「どうやったら、その過程をさかのぼることができるの?」と思うかもしれません。それは、自我として黙ることによってのみ可能です。意志とは、言語的な表現でしかないと言いました。それが本当なのかどうかを確かめるには、言語機能として、黙ってみるしかないんです。〝自由意志〟としてではなく、単に〝自由〟の感覚としてとどまればいいんです。〝自由〟であるために、必ずしも〝意志〟は必要ないということに気がつくかもしれません。

もし、自由意志の感覚に魅了されてしまうなら、真我を忘れてしまう可能性はある

意志そのものは、言語的な表現なのであって、それは無意識的な働きによって組み上げられたものです。でも、意志は、自分は〝自由意志〟なのであって、自分は無意識的な働きを超えていると錯覚しているんです。ともすれば、自分は真我をすら超えていると錯覚する人もいるかもしれません。なにしろ、自我というのは、真我に意志(言語機能)をプラスしたようなものです。自分は拡張された真我だと錯覚してもおかしくはありません。

でも、真我実現した人は、それがどうしょうもなく錯覚なのだということに気がついてしまいます。真我実現した後ですら、その錯覚そのものは続きます。言語機能は続くことになります。ただ、言語機能と、真我そのものは、別のものであるという識別がそこにはあるんです。なので、その2つが再び一体化してしまうことは基本的にはありません。「自分は自由意志だ」と主張し始めることはありません。

ただ、真我実現した後も、無意識的な働きは機能し続けます。無意識的な働きは、依然として〝自我実現〟を目指して働き続けるんです。そこには、ある意味での、参加者不在の綱引きのようなものがあるのかもしれません。ほぼすべての人が、3歳頃になって自我が芽生えると、その自由意志の感覚に魅了されてしまいます。それは、この世界に魅了された状態と言ってもいいかもしれません。稀だとは思いますが、真我実現した後でさえ、この世界に魅了されるという人はいるのかもしれません。その場合には、まるで3歳児のように、自由意志の感覚に魅了され、再び、真我を忘れていくということは、あり得なくは無いのかもしれません。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

作成者: 山家直生

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