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ゴータマ・ブッダ 仏教

なぜ、ブッダは縁起を説いたのか?【信じることへのアンチテーゼ】

今回は、なぜ、ブッダは縁起を説いたのかというお話をしようと思います。

ブッダは四諦(したい)を説いたと言われています。

この世は苦しみである。

苦しみには原因がある。

苦しみは滅することができる。

その方法は、苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することである。

というシンプルな4つの教えです。

でも、それとは別にブッダは縁起も説きました。

この世には、単独で存在しているものは無く、すべて縁起(関係性)によって存在しているように見えているという教えですね。

「空」の思想と言うこともできます。

(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】

「四諦」と「縁起」、どちらもブッダが説いたことだと思うのですが、ともすれば、この2つの教えは矛盾しているように見えたりもします。

「苦しみも縁起(関係性)で起こっているなら、苦しみ(実在しないもの)を滅することができるというのはおかしいんじゃない?」ということですね。

そのことが、その後の仏教に混乱をもたらしたりもしています。

なぜ、ブッダは四諦だけでなく、縁起も説いたのでしょうか?

四諦を説くだけではダメだったのか?

ブッダが、縁起よりも四諦を重要視したのは間違いないと思います。

最古の仏典スッタニパータを読んでみても、縁起を思わせる言葉よりも、苦しみや煩悩についての言葉の方が多いです。

(関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?

煩悩、欲望を捨て去ることをいろんな言葉で語っています。

そう考えると、「四諦を説くだけでも十分だったのでは?」とも考えることができます。

ブッダは、自身の教えを仏典として残すことを禁じていたようです。

現在残っている仏典というのは、すべてブッダの死後に制作されたもののようです。

最古の仏典スッタニパータでさえそうです。

そのことから考えても、ブッダが四諦を重要視したのは確かだと思います。

四諦であれば、わざわざ仏典にして残すまでもなく、十分に口頭で伝えていけるほどにシンプルです。

この世は苦しみである。

苦しみには原因がある。

苦しみは滅することができる。

その方法は、苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することである。

これだけです。

でも、ブッダは縁起も説きました。

ブッダが縁起を説いた時代背景

なぜ、ブッダが縁起を説いたのかを考えるには、ブッダが生きた時代背景を考えると理解しやすいかもしれません。

ブッダは紀元前400〜500年頃の人物です。

今から2500年ほども前の人物です。

その頃の宗教と言えば、ヴェーダであり、バラモン教です。

ブッダは、死ぬこと、老いること、病気になることを恐れて、それを克服するために、王子の地位を捨てて出家して、真理の探求を始めたと言われています。

当然、その拠り所はヴェーダであり、バラモン教だったはずです。

ブッダは2〜3人の師についたと言われていますが、結局のところは師の元を去り、菩提樹の下でひとりで真理を悟ったとされています。

そして、その後、四諦と縁起を説いて周りはじめたわけです。

であるなら、ブッダは、ヴェーダやバラモン教の教えに満足していなかったと考えるのは自然なことなんじゃないでしょうか?

ブッダは、なぜ苦行をしたのか?

ブッダは、苦行をおこなったとされています。

餓死寸前まで断食をおこない、スジャータに乳粥をもらって一命をとりとめたと言われています。

そして、ブッダは苦行には意味が無いと感じて、苦行をやめてしまいました。

でも、そもそも、なぜブッダは苦行をはじめたんでしょうか?

おそらく誰かに「苦行をすることで真理を悟ることができ、死の恐怖を滅することができる」と言われたのではないかと思います。

他にも、なんらかの理由付けがあったのかもしれません。

そして、ブッダはそれを信じたのだと思います。

真理の探求においては、何かを信じるという精神的な作用は避けられません。

何もせずに真理を悟れるのなら、すでに悟っているわけです。

でも、そうは思えないからこそ、何らかの方法を探して、それを実践しようとします。

でも、世の中には数多くの悟るための方法があります。

中には、信じ難い方法もあるんじゃないでしょうか?

僕はインドに行ったことはないので分かりませんが、中には、片足だけで立つ誓いを立てている人、片腕をずっと上げ続ける誓いを立てている人、などもいると聞きます。

おそらく、それは悟るための方法なのであって、それを信じているのだと思います。

でも、本当にそれは悟るための方法なんでしょうか?

「こうすれば悟るのでは?」というイメージはなにゆえに起こるのか?

多くの人は、「こうすれば悟るのでは?」というイメージを抱いているのではないかと思います。

もちろん、そうであって当然なのですが、その根拠は何でしょうか?

誰かがそう言っていたからでしょうか?

それとも、自分の中からでてきた発想でしょうか?

それとも、ヴェーダ聖典にそう書かれているからでしょうか?

その根拠は人様々だと思います。

人は、理屈に合っていなくとも、イメージできるものであればそれを信じてしまうことができるという性質を持っています。

例えば、輪廻転生を信じるのはその典型なんじゃないかと思います。

それは確かめようがありません。

ヴェーダに登場する神々の存在も信じられていることが多いと思いますが、それを確かめるすべはありません。

にも関わらず人は、「この世で努力をすれば神々の世界に輪廻することができ、その先に真理がある」という言葉を信じることができます。

「その為には、師に奉仕しなければならない」と言われるなら、それも信じるでしょう。

「苦行によって身体を瀕死の状態にすることで、無我の悟りの境地が得られる」と言われるならば、それも信じるかもしれません。

でも、その根拠は何なんでしょうか?

苦行の場合には、ブッダみたいに実際に確かめてみることで、それは違うのだなと知ることができます。

でも、輪廻が関わっている場合には、生きているうちには確認することはできません。

もし、死の間際にその考え方への疑いがでてくるならば、大変な苦しみを味わうことになるんじゃないかと思います。

イメージを飛躍させないために縁起を説いたのではないか?

ブッダ自身、苦行をすることで悟ることができるということを信じたのであり、人は、根拠なく様々なイメージを信じてしまうことを理解していたはずです。

人は、無自覚に様々なイメージを信じてしまいます。

その理由は何なんでしょうか?

「苦行することで悟ることができる」と言われて、それを信じる人と、信じない人の差はどこにあるんでしょうか?

その違いは感情にあるんじゃないかと思います。

「苦行することで悟ることができる」と言われて感情的エネルギーが湧くなら、それを信じるんじゃないでしょうか?

それは、ある意味では縁起です。

「気づく働き」と「感情的エネルギー」に縁って、「信じる」ことが起こっています。

もし、人がこの縁起に自覚的でなければ、延々と自分に感情的エネルギーをもたらす言葉やイメージ、考え方、人を探し続けるんじゃないでしょうか?

仮説の上に仮説を重ねたような信じ難い話でも、感情的エネルギーが湧くなら信じるようになってしまうのではないでしょうか?

でも、その感情的エネルギーは持続しません。

反対に多くの場合、「イメージ」と「現実」のギャップに縁って、「苦しみ」が起こるようになるんじゃないでしょうか?

それは、真理の探求だけに限らずに、日常生活の中でもそうですよね。

人は、感情的エネルギーをもたらしてくれるものを、無条件に信じるようになります。

だからこそ、ブッダは縁起を説いたのではないかと思います。

苦しみの原因を自覚しなければ、苦しみは増していくばかりです。

世界は縁起によって存在しているように見えている

この世界はすべて縁起(関係性)によって存在しているように見えているのであり、単独で存在できるようなものはありません。

この体だって、縁起(関係性)によって存在しているように見えているのであって、実体は無いものです。

であるなら、その体に苦行をさせてどうするんでしょうか?

体に縁って起こるものはすべて一時的なものであって、その中に真理は無いのではないかと思います。

はたまた、ヴェーダでは神々の世界が描かれますが、それは縁起(関係性)によって存在しているように見えるだけであって、実体はありません。

人は、「神々の世界」と簡単に言葉で言うことができますが、それは、あくまでも感覚的なものです。

多くの場合、「神々の世界」が重要なのではなく、それによって感情的エネルギーが湧くかどうかの方が重要なんじゃないかと思います。

でも、その感情的エネルギーだって縁起(関係性)によって存在しているように感じられているものです。

「縁起」と「四諦」は無関係のものじゃない

「縁起」と「四諦」の教えというのは、ともすれば、矛盾しているようにも感じられます。

縁起では苦しみには実体はないと説き、四諦では苦しみは滅することができると説きます。

でも、実のところ、この2つの教えはまったく別のものというわけでもないんです。

苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するところを観察するというのが四諦の教えです。

実は、四諦の中には縁起が含まれています。

「気づく働き」と「原因」に縁って、「苦しみ」が起こっているのであり、それは縁起(関係性)であり、実体は無いのであり、実体が無いということを確認できるまで(滅するまで)観察してみなさいというのが四諦の教えだと言うこともできます。

つまりは、四諦というのは「苦しみ」にフォーカスした縁起の教えだと言うこともできます。

とはいえ、「苦しみにフォーカスすることに何の意味があるのか?」という人もいたと思います。

「神々の姿が見えるようになったり、神々の声が聞こえるようになる必要があるのでは?」という人もいたと思います。

かつてのブッダのように、「苦行をすることで真理を悟ることができるのではないか?」という人もいたと思います。

そういった人のために、ブッダは縁起を説いたのではないかと思います。

それは、感情的エネルギーを求めることに縁って、結局のところは、苦しみが起こるということに気がついてもらうためだったのではないかと思います。

それは、ヴェーダやバラモン教、その他様々な教えを無条件に信じてしまうことへのアンチテーゼだったのかもしれません。

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