「エゴ」「自我」「自己」「自分」。
どれも似たような言葉ですが、
一体どう違うんでしょうか?
たぶん、正解はありません。
僕はこう思うということをお話します。
言葉遊びのようなものです。
大事なのはラベルよりもその中身?
「エゴ」「自我」「自己」「自分」というのは、
どれもラベルみたいなものです。
言葉そのものには意味というか中身はないと思います。
中身がなにかを決定するのは、
まさしく自分です。
もしくはエゴです。
もしくは自己です。
もしくは自我です。
言葉遊びですね。
例えば、ワイン。
ワインの瓶にはラベル(エチケット)が貼ってありますよね。
それがなければ、中身がどんなワインかわかりません。
でも、ラベルは中身そのものではないですよね。
ラベルはあくまでもシールです。
中身が違うワインの瓶に、
同じラベルを貼ることだってできます。
僕たちはラベルそのものが欲しいわけじゃないですよね。
大事なのは中身だと思います。
「観察対象」か「観察者」か「観照者」か?
僕が思うに、
中身には3つの可能性があると思います。
「観察対象」か
「観察者」か
「観照者」かの3つです。
「観察対象」というのはその名の通り、
観察されるものです。
僕たちって自分の頭の中にでてくる考えに、
気づくことができますよね。
気づかれる考え、それが「観察対象」です。
僕の中では「エゴ」は観察対象なんじゃないかなと思います。
そして、「観察者」は、
頭の中にでてくる考えに、気づこうとするものです。
そして、それをコントロールしようとするものです。
僕の中では「自我」がそうでしょうか。
そして、「観照者」は、
頭の中にでてくる考えに気づこうともせずに気づいているもの、
ただ在るもの。
僕の中では「自分」「自己」がそうです。
「観察対象」とは、勝手にでてくる考え。
僕の中では「エゴ」が観察対象です。
頭の中に、勝手にでてくる考えのことですね。
例えば、お腹が減ったら
「お腹すいたな〜」という考えがでてくると思います。
自分で考えようとせずとも、
勝手にでてきますよね。
そして、僕たちはその考えに気づくこともできます。
観察対象です。
そういうものがエゴなんじゃないかなと思います。
一般的には、自分勝手な考えのことをエゴと言うかもしれませんが、
僕はそうじゃなくて、勝手にでてくる考えがエゴだと思っています。
なので、例え、他人のための考えだったとしても、
勝手にでてきているのであれば、
それはエゴだということですね。
僕はエゴをネガティブなイメージでは捉えていません。
「観察者」が、思考をコントロールしようとする。
僕の中では「自我」と「自分」は、観察者です。
自分の頭の中にでてきたエゴを観察しようとするものですね。
そして、思考をコントロールしようとするものでもあります。
僕たちの頭の中のエゴは、
かならずしもひとつじゃないですよね。
複数の考えに迷うこともあると思います。
なぜ、迷うのかといえば、
観察者が、どのエゴを優先させるのかに迷うからです。
思考をコントロールしようとするんですね。
心の中の葛藤がおきる原因はここにあると思います。
「観照者」とは、ただ在る存在。
僕の中では「自分」と「自己」は、観照者です。
観照者というのは、
自分の頭の中にでてきたエゴに気づいているものです。
でも、そこに意志はありません。
ただ、気づいているだけというか。
ただ、そこに在るという存在です。
頭の中にたくさんのエゴがでてきたとしても、
ただ、気づいているだけで、なにかしようとは思わない存在です。
観照者が、観察者ではなく、
たんなる観照者として在るとき、
そして、そこにエゴもないとき、
その状態のことを「空」というのではないかなと思います。
まとめ
というわけで、
「エゴ」「自我」「自己」「自分」の違いについてお話しました。
僕の中でも言葉の定義が結構曖昧ですね。
「自分」という言葉を「観照者」でもあり「観察者」だとも思っています。
言葉でなにか伝えようとしても、
そこには必ず誤解が生じるという証拠でもあります。
自分の中でだって誤解が生じてるんですから。
ともあれ、大事なのは中身ですね。
僕が思う中身は「観察対象」と「観察者」と「観照者」の3つです。
観察対象とは、頭の中に勝手にでてくる考え。
観察者とは、思考をコントロールしようとするもの。
観照者とは、ただ、気づいている、ただ在る存在です。
自分で納得できるのであれば、
どのように使ってもいいんじゃないかなと思います。
正解らしきものはあるかもしれませんが、
それを覚えようとする必要はないんじゃないかなと思います。
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