「悟後の修行」という言葉があります。
悟った後にも、修行は続けられるべきである、という意味合いで使われることが多いのではないかと思います。
僕は、この言葉の意味が気になっていた時期がありました。
「なぜ、悟ってからも修行する必要があるんだ?」という疑問と、「そもそも、悟りって何なんだ?」という疑問が、同時に起こっていました。
悟りには段階があると言われることもあります。
もし、そうであるなら、悟後の修行というのもあり得るのでしょう。
でも、僕は、そもそも悟りとは何かということが理解できませんでした。
ハートとは何かを理解してはいましたが、僕は、それを悟りだとは思えませんでした。
結局のところ、僕は「悟後の修行」を経験することなく、探求を終えました。
つまり、僕にとっては、悟後の修行は必要なかったということになります。
とはいえ、こういったことは相対的な視点の問題かもしれません。
悟りとは一体なんなんでしょうか?
そもそも、悟りとは一体なんなんでしょうか?
このことが明確にならないからこそ、「悟後の修行」という言葉の意味も明確になりません。
ある人は、努力することによって、聖者みたいな人格に成ることを、悟りだと思うかもしれません。
ある人は、人の心を読みとる超能力を身につけることを、悟りだと思うかもしれません。
ある人は、「私は体ではなく、この意識なのだ」という実感を得ることを悟りだと思うかもしれません。
人は、なにかしらの悟りのイメージを抱いています。
そして、悟りたいと思ったなら、その方向に向かっていくわけです。
宗教によっては、悟りのガイドラインを用意しているところもあるかもしれません。
「こういう風にしてステップアップしていくんだよ」というガイドラインですね。
例えば、上座部仏教には四向四果というガイドラインがあったりします。
預流から始まり阿羅漢で終わるというステップを踏みます。
その一方で、ノンデュアリティ(非二元)のように「すべての人はすでに悟っている」と教えるところもあります。
ノンデュアリティの場合、悟後の修行はもちろん、悟るという目標すら否定されるでしょう。
(関連記事:非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】)
悟りと一口に言っても、世の中には、さまざまな悟りの定義があるわけです。
自由意志が肯定されるなら、悟後の修行は必要かもしれません
悟りの定義はさまざまです。
でも、大きく分けるなら、自由意志が肯定される悟りと、自由意志が否定される悟りの、2つに分けられるのではないかと思います。
例えば、神に向かって祈ることによって、悟り体験を得たという場合、自由意志が肯定される傾向があるのではないかと思います。
祈ろうとするからこそ、悟り体験を得たのであり、自由意志は、祈ることを続けたがるかもしれません。
悟り体験を、さらに確かなものにしたがるかもしれません。
それはまさしく、悟後の修行なんじゃないでしょうか?
また、マントラを唱えることによって、人の心を読みとる超能力が身についた場合、自由意志は肯定される傾向があるんじゃないかと思います。
その超能力は悟りの証なのであり、自由意志は、その超能力にさらに磨きをかけたいと思うかもしれません。
そしてまた、多くの人の心を読みとりたいと思うかもしれません(おせっかいにも)。
それはまさしく、悟後の修行なんじゃないでしょうか?
多くの人が抱く悟りのイメージは、こういったものが多いような気もしています。
何かをすることによって、悟りが得られるというイメージです。
なので、自由意志は肯定されます。
自由意志なしには悟りを目指すこともできないでしょう。
とはいえ、なんらかの悟り体験や、超能力が身についたとしても、その自由意志は満足しないことがほとんどだと思います。
大抵の場合、悟り体験は一時的なものですし、超能力は、弱まったり失われることもあります。
なので、自由意志は、「悟後の修行が必要だ」と主張するようになります。
悟後の修行を怠ることは、悟りの道から外れることであって、堕落への道につながると主張することもあるかもしれません。
でも、僕は、「悟後の修行を終えた」と言う人を知りません。
悟後の修行と言うからには、そこにはゴールがあるべきなんじゃないでしょうか。
でも、そのゴールに到達したと言う人はいないんです。
悟後の修行というのは、ゴールが見えないエンドレスな道であるように見えます。
悟りというのは、そういうものなんでしょうか?
自由意志が否定されるなら、悟後の修行はあり得ません
「悟りとは、自由意志が失われることだ」と言われることもあります。
悟ろうとする自由意志が失われることが、悟りだということですね。
これ、理解できるでしょうか?
人によっては、「それはまさしく堕落への道だ」と思うかもしれません。
自由意志なくしては、悟りへ向かうという方向性を保つことはできないからです。
好き勝手に行動することが悟りへの道でしょうか?
もしそうであるなら、すべての人が悟りへの道へと向かっていることになります。
わざわざ悟るために努力する必要もないでしょう。
なので、多くの人は、悟るためにも、自由意志を保ち続けたいと考えます。
でも、悟り体験や、超能力を得たとしても、自由意志は満足しないわけです。
「悟後の修行が必要だ」と主張するようになります。
そして、「悟後の修行を終えた」と言う人はいないわけです。
それは何故なんでしょうか?
それは、自由意志を保たなければならないという前提が、そもそも間違っている可能性を示しているんじゃないでしょうか?
人は、「悟りとは何か?」と考え、その方向に向かいたいと考えます。
でも、〝誰が悟りたいと考えているのか〟ということには無自覚なことが多いです。
この自由意志が悟りたいんでしょうか?
でも、この自由意志とは一体何なんでしょうか?
実のところ、自由意志とは、意識に方向性を持たせるための一時的な機能性でしかありません。
なので、悟り体験を得たとしても、それは自由意志がそこにあるときだけの一時的なものになります。
超能力が身についたとしても、それを使えるのは、自由意志と、その対象がそこにある時だけです。
言ってみれば、その悟りは、自由意志という存在に依存しているんです。
なぜ、悟りという現象を自由意志に依存させてしまうんでしょう?
本当の意味での悟りというのは、その自由意志から解放されることです。
自由意志が解放されるんじゃないんです。
自由意志を観照するこのハートが、自由意志から解放されるんです。
退屈や苦しみから解放されるんです。
それは一時的じゃありません。
そのことに気がついてしまえば、悟後の修行はあり得ないということを悟るかもしれません。
(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?)