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不二一元論・非二元論

非二元論と不二一元論は違うんですね……

以前、「非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】」という記事を書きました。

「ラマナ・マハルシの教え(不二一元論)と、非二元論って違うよなあ。。」というところから書いた記事なのですが、どうやら、違っていて当たり前だったようです。

そもそも、非二元論と不二一元論というのは、似ているようですが、別物なんですね。

勘違いしていました。

僕みたいに、「同じようなものでしょ」と思っていた人は少なくないんじゃないでしょうか?

じゃあ、一体どう違うのか?

お話します。

非二元論は、個人は非存在で、意識だけが存在するという考え方。

まずは、非二元論から。

非二元論では「非」という言葉が使われています。

何が「非」なのかというと、個人が非存在ということですね。

多くの人は、「世界は実在していて、その中に、体を持った個人としての私がいる」と思っていると思います。

実は、それは非存在だというのが、非二元論です。

世界も個人も実在していないということです。

とはいえ、まるで、世界は存在しているかのように思えますよね。

目の前の机をコンコンッて叩けば、手と机がぶつかる感覚もあります。

世界が存在していないと思うことは難しいです。

ましてや、体を持った、この私が存在していないなんて。

でも、そう思えるのも、「意識」が存在しているからというのが、非二元論の核心です。

唯一、意識だけが存在していて、その、意識の中に、世界と個人が、まるで実在しているかのように映し出されているということです。

例えるならば、テレビのディスプレイと、映像の関係です。

ディスプレイが「意識」で、映像が「世界と個人」です。

でも、意識にも、アートマンとブラフマンの2つがある?

非二元論では、意識を一つのものとして扱っていると思います。

でも、古代インドの人は、そうじゃないんです。

意識にも、アートマンとブラフマンの2つがあると考えます。

今も使いますよね、アートマンとブラフマンという言葉。

アートマンというのは、個人的な意識。

ブラフマンというのは、宇宙的な意識。

その歴史は、ヴェーダ聖典の時代までさかのぼります。

紀元前1000年前とか、そういった時代までさかのぼります。

そして、そこで論点になるのは、アートマンとブラフマンの関係性なんです。

「自分の本質は意識だというのは当然だけどさ、アートマンとブラフマンの関係性はどうなってるの?」

ということが、真理の探求においての、大きな論点になるんです。

アートマンはブラフマンの一部であるという考え方は「不一不異」。

アートマンとブラフマンは、どういう関係性になっているでしょうか?

今、あなたが気がついている、その意識。

その意識は、宇宙的な意識の一部だと感じるでしょうか?

そう感じる人は、多いかもしれません。

「アートマンは、ブラフマンの一部である。」

実は、そういった考え方を「不一不異」と言うそうです。

アートマンとブラフマンは同一のものではない。

でも、だからといって、異なるものでもない。

というのが「不一不異」です。

一方、アートマンとブラフマンは同一であるという考え方が「不二一元論」。

一方、アートマンとブラフマンは同一のものであるという考え方が「不二一元論」です。

どちらかが非存在というわけではないので、「非」という言葉ではなく、「不」という言葉が使われます。

「アートマンとブラフマンの2つがあるように思えるかもしれないけど、同一のものだよ」

ということです。

これ、納得できるでしょうか?

もし、自分がブラフマンであるならば、まるで、宇宙を自分の体かのように、知覚できるようになるはずです。

でも、そう感じられる人はいるでしょうか?

一方、今、気づいている意識である、このアートマンがブラフマンと同じものであるならば、この意識の外側には、なにも存在しないことになります。

ブラフマンの外側に、なにかが存在しているということはあり得ません。

納得できるでしょうか?

頭は、「この意識の外側にも、世界は広がっている!」と叫ぶはずです。

なので、「アートマンとブラフマンは同じもの」と言われるとき、ほとんどの人は、アートマンがブラフマンに近づいていくと考えることが多いです。

そして、アートマンとして、ブラフマンに近づいていこうという努力をしたりします。

「努力すれば、今、気づいているこの意識が拡大して、宇宙的なブラフマンに近づくのでは?」とか。

僕も、そういった考えを抱いたことがありました。

そして、そういった努力は、神秘体験を引き起こす可能性も高いと思います。

でも、違うんです。

世界は実在しているわけではありません。

幻想としての世界だって、この意識の外側には広がっていません。

すべてが、この意識の内側で起こります。

アートマンの中でです。

そして、アートマンはブラフマンです。

これが、ヴェーダ聖典の最後を締めくくるウパニシャッド(奥義書)で語られることです。

シャンカラが提唱する不二一元論は、ウパニシャッドが元になっています。

(関連記事:シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」【書籍の解説】

一方、非二元論では、こういった、意識についての定義がされていないように思います。

そういった意味では、非二元論は、不二一元論よりも、不一不異の考え方に近いのかもしれません。

(関連記事:アドヴァイタ・ヴェーダーンタの意味とは?【不二一元論の哲学】