「私の中に世界がある」
「あなたの中に世界がある」
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジがよく使う言葉です。
この言葉、
あなたはどう受け取るでしょうか?
なにか深遠な意味があるように感じるでしょうか?
実のところ、この言葉は、
これ以上ないぐらい直接的な言葉です。
これからお話することは、
多くの人にとっては受け入れがたいことだと思います。
理解することはできるかもしれません。
でも、納得はしないでしょう。
誤解を招く可能性もあります。
でも、「私は在る」「至福(アーナンダ)」は理解しているんだけど、
なんだか世界との分離感が残るという人にとっては、
これからお話することは役に立つ可能性があります。
僕の真理の探求は、
この理解によって終わりました。
お話します。
ポイントは、「世界」とは何かということ。
ポイントは、
「世界」とは何かということです。
あなたは、世界という言葉にどんなイメージを抱くでしょうか?
多くの人と、
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジは、
「世界」という言葉に対しての認識が違います。
今、この瞬間、東京は存在するでしょうか?
例えば、今、この瞬間、
東京は存在するでしょうか?
「え?存在するに決まってるじゃん」
って思うでしょう。
「だって、私、今東京に住んでるし」
って思う人もいるでしょう。
でも、その「東京」というのは、
具体的には何を指すんでしょうか?
頭の中の「東京」というイメージを見て、
「東京は存在するに決まってるじゃん」
と言ってはいないでしょうか?
記憶を頼りにしなければ、東京をイメージすることはできない。
ここでひとつ、お願いです。
突然ですが、記憶喪失になったフリをしてみてください。
どうでしょうか?
準備はできたでしょうか?
もし、記憶が無ければ、
「東京」をイメージすることはできないんじゃないでしょうか?
もし、記憶が無ければ、
あなたは今、どこにいるんでしょうか?
「今、東京にいる」とは言えないんじゃないでしょうか?
「どこかにいる」としか言えないんじゃないでしょうか?
実際に東京の街並みを歩いてみて、
その地域に「東京」という名前が付けられていることを記憶しているときだけ、
あなたは「私は東京にいるし、東京は存在している」と言えるんじゃないでしょうか?
人によっては、実際に東京の街並みを歩いたことがなくても、
地図を見て、東京が存在していると思うかもしれません。
テレビに東京の街並みが映っていたから、
東京が存在していると思うかもしれません。
それは、「東京」というラベルのついた記憶です。
記憶が無ければ、東京は存在しないのか?
「でも、記憶がなかったとしても、東京は実際に存在するんじゃない?物理的にあるし」
と思うかもしれません。
確かに、記憶がなかったとしても、
今、この瞬間に、東京の街のどこかにいるのであれば、
東京は存在すると言えます。
例えば、六本木ヒルズの展望台から、
東京の街並みを一望しているとします。
目の前に、東京の街並みが存在しています。
記憶を頼りにする必要もありません。
でも、その後に、
飛行機に乗って、
ニューヨークに行ったとしたらどうでしょうか?
東京の街並みは視界から消えて、
ニューヨークの街並みが目の前に現れます。
この時、東京は存在しているでしょうか?
記憶を頼りにしなければ、
存在しているとは言えませんよね。
「そんなの詭弁でしょ?記憶が無くなることなんてないし」
と思うかもしれません。
確かにそうです。
詭弁です。
ニューヨークから東京にとんぼ返りすれば、
また、目の前には東京が現れるはずです。
今、気がついていることだけが、世界のすべてです。
ここからが大事なポイントです。
少し、認識をシフトさせていきます。
あなたは、自分の体が、
東京からニューヨークに移動すると思ってはいないでしょうか?
飛行機に乗って、
体が東京からニューヨークに移動すると。
これを疑ったことはあるでしょうか?
おそらく、疑いようがないでしょう。
でも、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジは、
そうは思わないんです。
「ニューヨークが私の目の前にやってくる」
と表現することでしょう。
理解できるでしょうか?
「私はどこにも行かない(行けない)」
と言うことでしょう。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジは、
自分を体に限定されたものとはみなしてはいません。
気づいている意識だと思っています。
(その根源は真我(ハート)です)
気づいている意識というのは、
移動するでしょうか?
気づいている意識は、
体についてくると思ってはいませんか?
東京からニューヨークに移動すれば、
気づいている意識も移動すると。
実は違うんです。
気づいている意識は動きません。
気づいている対象が動きます。
東京が動きます。
ニューヨークが動きます。
体も動きます。
でも、気づいている意識は動きません。
どうでしょうか?
混乱するでしょうか?
ものすごく具体的に言えば、
あなたはテレビのディスプレイみたいなものです。
ディスプレイの中に東京が映っています。
あなたの目線の映像です。
成田空港に向かい、
飛行機に乗り、
ジョン・F・ケネディ空港に到着します。
空港でタクシーに乗り、
ニューヨークのあるマンハッタン島へと向かいます。
このすべてが、
あなたの目線で、
ディスプレイに映し出されます。
ディスプレイは動いたでしょうか?
気づいている意識が私であるなら、「私の中に世界がある」
気づいている意識が私であり、
ディスプレイみたいなものであれば、
「私の中に世界がある」
と言えるんじゃないでしょうか?
深淵でもなく、
神秘的でもなく、
この上なく直接的な表現です。
この理解が起こったとき、
世界との分離感は無くなります。
世界は、あなたから離れて存在することができないんです。
あなたがいなければ、東京は存在できません。
あなたがいなければ、ニューヨークは存在できません。
分離しているのは、
あなたではないんです。
世界は実在しているという認識が、
あなたに分離感をもたらしているだけなんです。
あなた(意識)の外には、
あなた(体・心)が思っているような世界は存在していません。
記憶の中にだけ存在しています。
そして、その記憶だって、
あなた(意識)無しには存在できないんです。
もう一度、テレビを例に出します。
テレビには、
ピクチャーインピクチャーという機能があります。
知っているでしょうか?
例えば、2つの番組を同時に見たいときに、
ディスプレイの隅っこの方に、
もう1つの番組を映し出す機能です。
小さな枠の中に、
もう1つの番組が映し出されます。
あなたが実在していると思っている世界というのは、
この小さな枠の中に映し出される映像のようなものです。
あなた(体・心)は、
小さな枠に映し出された映像を見て、
それを全体だと勘違いします。
でも、実際のところは、
その小さな枠そのものも、
あなた(意識)というディスプレイの中に映し出されています。
あなたに分離感をもたらしているのは、
小さな枠に映し出された、
あなた(体・心)が記憶から作り出した、世界というイメージです。
理解できるでしょうか?
あなた(体・心)が思っている世界というのは、
あなた(意識)の中の、ほんの一部なんです。
つまりは、今、この瞬間に、すべてがあります。
今、見えているもの、聞こえているもの、
味わっているもの、匂い、皮膚に感じている感覚、
思考、イメージ、感情が、世界のすべてです。
そして、世界は常に移り変わります。
でも、分離したものはありません。
あなたに分離感をもたらしている、
世界は実在するという認識だって、
あなた(意識)から分離して存在することはできません。
そして、「私の中に世界がある」ということが理解されるとき、
世界との分離感が消える時、
今も過去も未来もないということが分かります。
あなた(体・心)が時間という概念を作り出しているんです。
あなたの体は、生まれて、死んでいきます。
そこには、時間という概念が生まれます。
でも、永遠の存在に対して、
時間という概念は必要でしょうか?
始まりがあり、終わりがあるものに対してだけ、
時間という概念が必要になります。
「私の中に世界がある」という理解が起こったとき、
世界は、その実在性を失います。
世界が無いという状態があるということが理解されます。
意識が気づいているのであれば、あなたの中に世界がありますが、
意識が気づいていないとき、世界は無いということが理解されるからです。
「自分が寝ているときにも、他者は世界の中で存在しているじゃん」
って思うかもしれません。
でも、それも、記憶をもとに作り出されるイメージです。
あなた(意識)の中の、小さな枠の中に映し出されるイメージです。
意識が気づいていないとき、そのイメージも消えることになります。
その時、時間は存在しません。
今も過去も未来もないんです。
それは、ただ在るという存在です。
それは、あなたです。真我です。すべての源です。
それはそれ自身で満たされていて、
世界があろうとなかろうと、分離はありません。
世界は実在するという認識が解体されるまでには、時間がかかります。
自分のことを体だと思っている人にとっては、
この話は理解できないでしょう。
もしくは、受け入れがたいでしょう。
世界は実在しており、
その世界の中を体が動いているという認識から、
抜け出すことはできないでしょう。
もちろん、その認識は当然です。
間違っていません。
この、人生という名のゲームを楽しみ苦しむには、
その認識が必要です。
でも、真理はちょっと違うということなんです。
「私は在る」を理解している人にとっては、
この話は理解できるのではないでしょうか?
納得はできないかもしれません。
少し混乱するかもしれません。
腑には落ちないかもしれません。
僕もそうでした。
世界が実在するという認識が解体されるまでには、
少し、時間がかかります。
僕の場合には、半年ほどかかったでしょうか。
ある日、「自分の中に世界がある」と、
自分が感じていることに、ふと気がつきました。
それまでは、
「自分の本性は真我(ハート)なのに、なぜ、ハートは世界の中を動き回るんだろう?」
という疑問を持っていました。
あなたは、疑問に思ったことはないでしょうか?
でも、「私の中に世界がある」という理解によって、
それは問題ではなくなってしまいました。
ハートは動いてなんかいなかったんです。
でも、この理解がいつ起こったのかはハッキリとは自覚できません。
気がついたらそうなっていたという感じです。
僕たちが、生まれてから、
いつ、自我を持ったのかというのが、
ハッキリしないのと同じだと思います。
神秘的なことはなにもありません。
子どもが3歳ごろになって自我を持つのは神秘でしょうか?
多くの人にとっては、
そうは感じられないはずです。
「私の中に世界がある」という理解も、
そういうふうにして起こります。
もちろん、例外もあると思います。
ラマナ・マハルシは、
自分の体の死をシミュレーションしただけで、
一瞬にして理解してしまいました。
本を読む限りはですが。
でも、多くの人にとっては、
それが起こるまでは時間がかかると思います。
それまでは、気がついたときに、
「世界は実在するわけではない」
ということを思い出してください。
この話を理解するというだけで、
おそらく、解体は進みはじめるはずです。
あとは、「私の中に世界がある」という理解が、
起こるのを待つだけです。