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形而上学(世界の根本原理) 探求

どうすれば「世界は実在している」という認識は崩壊するのか?

探求の終わりには、「世界は実在している」という認識が崩壊します。

「私は在る」とは何か?

「ハート」とは何か?

を理解した人にとって、最後に残っているのが、この認識の崩壊です。

これが起こるまで、少なからずの分離感が残り続けると思います。

でも、どうすれば、「世界は実在している」という認識が崩壊するんでしょうか?

「私は在る」にとどまり続けることによって、この認識は、自然に崩壊していくと思います。

なので、「私は在る」「ハート」を理解している人にとっては、それは時間の問題とも言えるんです。

でも、僕の場合には、多少の思考的な理解も、役に立ったようにも思います。

それは、どんな理解なのか?

お話します。

反対に、世界が実在していると信じているのはなぜ?

逆説的なことを言います。

反対に、なぜ、あなたは、世界が実在していると信じているんでしょうか?

「いや、世界が実在しているのは当たり前でしょ?」

と思うかもしれません。

おそらく、世界中のほぼすべての人が、そう思っていると思います。

だからこそ、この社会は成り立っているとも言えます。

「実は先週、パリに旅行してきたんだ〜!」

という人に、

「パリは存在しないよ?」

とか言えませんよね。

僕だって、そんなことは言いません。

「へ〜、パリに旅行に行ったんだ、どうだった〜?」

とか言うと思います。

僕にも、パリの記憶があるからです。

「ヨーロッパ大陸があって、フランスという国があって、その中のひとつの都市がパリだよね」という記憶があります。

また、20年ほど前にパリに旅行に行ったこともあるので、その時の記憶もあります。(かなり昔ですね)

ポンピドゥーセンターとか、オルセー美術館とか、凱旋門とか。

「あ、凱旋門って、実は奥行きも結構あるのね」

と思った記憶もあります。

「パリ」という言葉は、そういった記憶と結びつきます。

なので、僕も、まるでパリが存在するかのように会話をします。

でも、記憶は、単なる記憶です。

それは、パリが存在していることの証拠になるでしょうか?

パリに行った記憶は、パリが存在する証拠になるか?

「いやいや、私も実際にパリに行ったことがあるし、パリは存在するでしょ!」という人もいると思います。

実際にパリに行ったことがあれば、そう思うのは当然だと思います。

でも、パリが存在するかどうかは、再び、パリに行ってみないことには、確認できないんじゃないでしょうか?

あくまでも、それは推測です。

「パリは存在している」と言えるのは、今、パリにいる人だけです。

であるなら、こう思う人もいるかもしれません。

「パリ在住の友達と電話できれば、パリが存在する証拠になるんじゃないの?」って。

確かに、それは、パリが存在する証拠になりそうにも思えます。

でも、本当にそうでしょうか?

そもそも、その考え自体、パリが存在していることが前提になっているんじゃないでしょうか?

通話先には、友達がいて、そこはパリなんだという前提が必要です。

実際のところ、電話をすることで確認することができるのは、その受話器から、友達らしき人の声が聞こえてくる、ということだけなんじゃないでしょうか?

あなたの背後に、世界は広がっているでしょうか?

もっと、具体的な話をしてみます。

あなたの家の近くには、最寄り駅があるでしょうか?

電車に乗って、どこかに行きたいという場合には、家から最寄り駅まで歩いていきますよね。

もしくは、自転車だったり、バイクだったり、車を使って、最寄り駅までいきます。

ここで、イメージしてみてください。

あなたが、最寄り駅を目の前にした時、あなたの背後には、今まで通ってきた道は存在しているでしょうか?

「何言ってるの?存在しているに決まってるじゃん」って、振り返らずとも、思うかもしれません。

「だって、その道を通って、最寄り駅まで来たんだから」って思うかもしれません。

でも、本当のところは、振り返らなければ、確認することはできないんじゃないでしょうか?

なぜ、あなたは、振り返ることなく、「今まで通ってきた道は存在してる」って思うことができるんでしょうか?

このことは、疑うべきことです。

それは、なぜなんでしょうか?

それは、「今まで通ってきた道」のイメージ(記憶)が、あなたの脳裏に映し出されているからなんじゃないでしょうか?

そのイメージを見て、「今まで通ってきた道は存在している」と思うんじゃないでしょうか?

でも、そのイメージは、なんで、そこにあるんでしょうか?

そのイメージは、あなたが、作り出したんでしょうか?

そうではないはずです。

気がついたら、そのイメージは、すでにそこにあったはずです。

でも、いつ、そのイメージは現れたんでしょうか?

それは、あまりにも自然すぎて、あまりにも当たり前すぎて、多くの人は、疑問にも思わないでしょう。

でも、誰かが、そのイメージを、あなたの脳裏に映し出しているんです。

それは、自我です。

以前、自我について「そもそも、自我ってどういうものなのか?【エゴとは?自我とは?】」という記事を書きました。

自我は、世界を実在させておきたいと思っています。

なので、記憶を使って、世界が実在しているように感じられるように、あなたをサポートしています。

それも、かなり巧妙にです。

あなたに、気がつかれないようにです。

それは、社会生活を送るためには、良い方向に働くと思います。

でも、真理を悟りたいと思った場合、それは障害になります。

あなたは、そのことに気がつけているでしょうか?

もし、自我による、記憶のサポートがなかったとしたらどうでしょうか?

「パリ」についての記憶が、脳裏に現れなかったとしたら?

「今まで通ってきた道」についての記憶が、脳裏に現れなかったとしたら?

あらゆることについての記憶が、脳裏に現れなかったとしたら?

存在していることを確認できるのは、今、気がついてる範囲だけなんじゃないでしょうか?

記憶は、世界を実在させる力を持つ?

記憶を頼りにしなければ、世界が実在していることを、確認することはできません。

でも、冷静に考えてみてください。

記憶って、世界が実在していることの根拠になり得るでしょうか?

記憶って、かなり曖昧なところがありますよね。

現実と妄想をごっちゃにして記憶していることだって、よくあります。

3歳とか4歳ごろの記憶になると、「夢の中の記憶だったのかな?」と思われるぐらい、あやふやな記憶もあります。

親に聞いても、「そんな出来事はなかったよ」って返ってきたりします。

そんな記憶が、世界が実在することの根拠になり得るでしょうか?

冷静に考えれば、それは、難しいように思えます。

でも、実際のところは、記憶があるからこそ、人は、世界は実在していると信じています。

つまりは、順番が逆なんです。

多くの人にとっては、世界の実在性よりも、記憶があるということの方が重要なんです。

多くの人にとって、記憶というのは、最大の権威です。

体を失ったとしても、記憶だけは、あの世や来世に持ち越したいと願う人は少なくないはずです。

記憶がなければ、自分は存在していないにも等しいと思っているはずです。

なので、記憶は、世界を実在させるだけの力を持ちます。

でも、ハートとは何かを知っている人にとっては、記憶というのはそれほどの重要性を持たないんじゃないでしょうか?

例え、記憶喪失になっても、私は在るし、ハートの至福は失われないということを知っているからです。

もし、このことを理解できるのであれば、「世界は実在している」という認識は、じきに崩壊していくはずです。

もちろん、自我による、記憶のサポートは続きます。

でも、「あ、これは単なる記憶だ」と気づくだけです。

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作成者: 山家直生

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