Aさんからご質問を頂きました。
ありがとうございます。
おそらく、多くの方が、その答えを知りたいと思うであろうご質問でしたので、Aさんから許可を頂きまして、このブログでお答えしたいと思います。
ご質問が2つありましたので、2回に分けてお答えしたいと思います。
今回は、理想を手放すということと、自殺、バクティとの関係性についてです。
【Aさんからのご質問】
「私は死にたくない」という理想を手放す手段の1つに自殺というものがあると思うのですが、今、新型コロナで仕事を失い、家賃が払えなくなった人が世界中にいると思います。
「衣・食・住」のうち、食と住がなくなった人が苦しんでいる理由、その根底に「私は死にたくない」というところから来ていると思うのですが、それを手放す手段として自殺された方も少なくないと思います。
山家さんから見て、それもアリということでしょうか?
いくつか前のブログに「愛ゆえにテロを起こす」という文があったと思うのですが、「愛ゆえに自殺する」ということも許容されているということですか?
(関連記事:愛とは存在させる力)
ちなみに私自身が自殺したいと思っているということではないですし、身近にそういう人がいるということでもないです。
自殺するということは、全てを明け渡す、手放すという真我実現(探求)と紙一重のような似て非なるもののような…
ブッダが輪廻転生する個人は存在しないというなら、自殺も他殺も事故死も病死も大差ないのではないかと、ふと思ったので質問させていただきました。
パラマハンサ・ヨガナンダの大本の師、ババジの伝説の1つに、弟子入りの志願者が崖から身を投げ死んだあと生き返らせて弟子にしたというものがありますが、これは山家さんの「バクティとジニャーナ」についてのブログのバクティを表した1つの例なのではないかと思いまして、その伝説と今回の質問の自殺と関係しているのかいないのかモヤモヤしていました。
【回答】
僕自身は、自殺を悪いものとも、良いものとも思っていません。
なので、自殺という現象が起こるのであれば、それは、アリということになるのだと思います。
社会的な倫理観で言えば、受け入れられないと思います。
一般的には、「自殺はいけないこと」と思われているはずです。
確かにそうなのですが、大事なことは、自殺が起こるかどうかを、誰もコントロールすることはできないというところです。
他人の考え方や価値観を、コントロールすることなんてできませんよね?
まあ、それをしようと努力してしまうのが人間ですが。。
もし、それをコントロールできる存在があるのだとすれば、それは、個人ではなく、神です。
神という表現でなくてもいいのですが、この世界を成り立たせている存在です。
そして、もし、そうであるのであれば、自殺という現象を赦しているのも、神ということになるんじゃないでしょうか?
僕は以前、「愛ゆえにテロを起こす」という言葉を使いました。
「愛」という言葉はとても便利なもので、あらゆることに使えると言いました。
なので、当然のことながら、「愛ゆえに自殺する」とも言えます。
「愛」というのは、別の言葉で言うならば、「赦されている」ということです。
自殺という現象が起こるには、まず、「自殺したい」という思考が起こらなければいけませんよね。
この思考、赦されていない人には起こりません。
例えば、「アメリカからマシンガンを密輸して、渋谷のスクランブル交差点で乱射したい」と思考できる人は、極々稀なはずです。
ほとんどの人には、そういった思考が赦されてないからです。
発想すらできないでしょう。
人は、自分には自由意志があると思っています。
あらゆることを、自由に考えたり、発想したりすることができると思っています。
でも、実際に考えることができるのは、あらゆる無限の可能性のうちの、ほんの一粒です。
言ってみれば、人は、あらゆる無限の可能性の中から、毎瞬、毎瞬、神から、一粒ずつの思考を、与えられているようなものなんです。
どんな粒を与えられるかは、分からないのですが、人は、それを自由意志だと勘違いします。
そして、「自殺したい」という粒が与えられると、人は、自分の意思でそれを思考したと思ってしまうんです。
そして、その思考を、自分のものとして握りしめてしまうと、自殺という現象が起こったりします。
今、新型コロナの影響で、世界が大変なことになっているのは、事実だと思います。
まあ、テレビとかインターネットで情報収集して作り上げた、僕の中の、イメージとしての世界ではということですが。
フェイクニュースだって、信じるのであれば、世界の一部になってしまいます。
この状況は、今は序の口で、今後、もっと悪化するかもしれません。
でも、食と住がなくなって苦しんでいる人に、「自殺したい」という粒が、必ず与えられるのかというと、それは分かりません。
「いい機会だから、店を畳んで、場所にしばられずに仕事できる業種に転職しよう」という粒が与えられる人もいるかもしれません。
結果として、今までよりも、快適な生活を送れるようになる人もいるかもしれません。
はたまた、何不自由なく暮らしている人が、自由に旅行に行けなくなってしまったことにストレスを感じて、自殺したい願望にかられることもあるかもしれません。
人は、苦しみ以上に、退屈を恐れますから。
言ってみれば、次の瞬間、世界がどうなるのかは、誰にも分かりません。
自分の体、心、感情だって、どうなるのかは分からないんです。
そして、そのことは、バクティに関しても言えます。
バクティタイプの探求者には、帰依心が求められます。
師の言うことは絶対で、「こうしなさい」と言われたなら、そうしなければいけません。
なので、ババジの伝説のようなお話があると、「師に、死ねって言われたのなら、自殺しなければいけないのかな?」って思うかもしれません。
「それができないのであれば、それは帰依心が足りないということであり、真我実現できないのでは?」と思うかもしれません。
そんなことはありません。
だって、ババジに「帰依心を示すために、その崖から飛び降りろ」と言わせるのと、帰依者に「ババジにそう言われたなら、飛び降りなければならない」と考えさせるのは、同じ存在だからです。
神です。
言ってみれば、自作自演です。
神が、その帰依心を決めるにも関わらず、神が、その帰依心を求めるということは、とんだ冗談のようにも思えますが、それが、この世界で起こっていることです。
探求者からの視点では、ババジは何か人間を超越した、特別な存在に感じるかもしれません。
でも、そんなことはなくて、ババジも帰依者も、神にコントロールされているという点では同じなんです。
違うのは、その自覚があるかないかだけです。
ババジは、人を生き返らせることができるということになっているので、この伝説は成り立ちますが、僕は、人を生き返らせることができる人に、出会ったことがありません。
なので、師に「こうしなさい」と言われたとして、それに対して、「そんなの知ったことか!ボケ!」と言うことは、間違っていないということです。
だって、体と心、感情は、神にコントロールされているんですから。
なので、真理の探求において、論点になってくるのは、「この体が自分じゃないとしたら、じゃあ、私は一体誰なんだ?」というところなんです。
(関連記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】)
ラマナ・マハルシの決めゼリフですね。
とはいえ、最初のうちは、この体が神にコントロールされているということに納得できませんよね。
なので、最初のうちは、自分を観察することによって、それを確かめていくことになります。