愛とは存在させる力

愛とは存在させる力です。

愛という言葉。
僕はあまり好んで使いません。

というのも、言葉の定義が曖昧すぎるからです。

使う人によってその意味が全然違いますよね?

でも、なんとなく通じてしまうのが「愛」という言葉です。

お話します。

テレビで言えば、ディスプレイの光です。

愛とは存在させる力です。

テレビで言えば、
ディスプレイの光です。

テレビって、ディスプレイが光らないことには映像が映りませんよね。

ディスプレイが光ることによって、
テレビの中に登場人物が現れて、
そして、世界が映し出されます。

例えば、ドラゴンボール。

テレビの中に、孫悟空が現れます。
そして、ベジータも現れます。
そして、バトルが始まります。

背景には、ナメック星が映っています。

このすべては、
ディスプレイが光ることによって存在することができます。

テレビのディスプレイの一粒一粒が、
様々な光に移り変わっていくことによって、
ドラゴンボールの世界が映像として映し出されるわけです。

世界はすべて愛でできているということ。

実は、この現実世界も、
同じようなものだと言ったらどうでしょうか?

この世界は3D空間ですが、
3Dディスプレイのようなものに、
僕たちは映し出されているだけだとしたらどうでしょうか?

「そんなバカな!」と思うかもしれません。

でも、そうだと仮定するとどうでしょうか?

その3Dディスプレイに、
僕たちが映し出されているのは何故なんでしょうか?

それは「愛」ゆえにです。

愛ゆえに、僕たちは存在することができて、
この世界も、愛ゆえに存在することができます。

言ってみれば、
この世界はすべて愛でできているということですね。

ラブ・イズ・オールです。

どんなシチュエーションで愛という言葉を使っても、
なんとなく通じてしまう理由はここにあります。

例えば、
先ほどのドラゴンボールの例で言えば、
愛ゆえに孫悟空とベジータはバトルをするわけです。

愛ゆえに、ナメック星は存在するわけです。

他にも例をだしてみましょう。

「愛ゆえにパンを盗む。」

「愛ゆえにゴミ拾いをする。」

「愛ゆえに落とし穴を掘る。」

「愛ゆえに愛を語る。」

「愛ゆえに子どもが生まれる。」

「愛ゆえに死ぬ。」

「愛ゆえにテロを起こす。」

「愛ゆえに宇宙に飛び出す。」

「愛ゆえにバイトをする。」

「愛ゆえに間違える。」

「君は愛そのもの。」

どうでしょうか?
すべてなんとなく通じるんじゃないでしょうか?

愛は限定されません。

人によっては、

「「愛ゆえにテロを起こす。」は愛じゃないんじゃない?」

と思うかもしれません。

でも、この世界がすべて愛ゆえに存在しているのであれば、
テロという行為も、愛ゆえに行われているんじゃないでしょうか?

「テロを起こしたい!」という衝動や思考、
欲求すら、愛によって許されているということです。

許されないのであれば、
そういった思考や衝動は存在できないでしょう。

人の思考や衝動をコントロールできないほど、
神は無力だとは思えません。

例えば、映画の脚本家は、
すべてのセリフや行動をコントロールできますよね。

だからと言って、
テロを許容すればいいという話ではありません。

「テロは許さない!」という感情や思考も、
愛ゆえにその存在を許されます。

愛というのは、物理的なものに限らずに、
思考、目に見えないもの、霊性、すべてに行き渡ります。

でも、人は、ついつい、
愛を限定しようとしてしまいます。

「これは愛で、これは愛じゃない。」

と2つに分けてしまうんですね。

そして、もっとも悲しいのは
「自分は愛ではない」という限定です。

これは、愛は外から得なければならないという、
勘違いを生んでしまいます。

愛とは存在させる力です。

もし、自分は愛ではないと思い込むのであれば、
自分は存在してはいけないと思い込むのと同じです。

とても苦しいでしょう。
存在理由を外に探し求めるでしょう。

でも、自分自身が愛で出来ているということが分かれば、
外に愛を求める必要はあるでしょうか?

存在するすべては愛であるということを悟ること。
それが、この世界における最も大きな気づきだともいえます。

でも、愛には終わりがあります。

存在するすべては愛ですが、
人は必ず死にます。

これは否定しようがないのではないでしょうか?

人は愛ゆえに存在しますが、
いつしか、終わりを迎えます。

でも、多くの人は「死にたくない」と思うんじゃないでしょうか。
存在し続けたいと思うはずです。

死後の世界がイメージされるのも、
存在し続けたいという愛の現れです。

「人は、体が死んでも、死後の世界で体を持たない存在として生き続ける」

魅力的な言葉なんじゃないでしょうか?

多くの宗教や、スピリチュアルが、
死後の世界のものすごい世界観を構築しているのも、
それが理由だと言えます。

「死後も存在し続けたいから、この宗教やスピリチュアルを信じてみよう」

となるのではないでしょうか?

仏教の場合には、
輪廻転生の世界観があります。

ブッダ本人は、輪廻転生は否定していますけどね。
輪廻転生するような個人は実在しないというのがブッダの教えだからです。

なので、今の仏教と、ブッダの教えというのは、
別物だと思っておいたほうがいいでしょう。

でも、世界の中で個人として存在していると思っている人にとっては、
輪廻転生の世界観は魅力的なんじゃないでしょうか?

なにしろ、ずっと存在し続けられるんです。

永遠に存在するものは何でしょう?

でも、そういった世界観を信じたからといって、
死後に本当にどうなるのかは分かりませんよね?

それに対する解決策は、
実は、ひとつしかありません。

死後の世界が無かったとしても、
問題はないということを悟ることです。

「死後は、ずっと寝ている時と同じ状態だったとして、なにか問題でも?」

ということを悟ることです。

そのためには、
愛を手放す勇気が必要になるかもしれません。

人が死を恐れるのは、
愛ゆえに存在しているこの世界に執着しているからです。

そして、この世界を楽しむには、
5感覚と心が必要になってきます。

死んで体を失うとなると、
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、心を失います。

人によっては霊性も失います。
霊性も、「気づいている」という状態無しには存在できないでしょう。

イメージしてみてください。
どんな気分でしょうか?

絶望するかもしれません。
虚無の世界だと思うかもしれません。
恐れて当然だと思うかもしれません。
死後の世界が存在していて欲しいと思うでしょう。

でも、本当に恐れるようなものなんでしょうか?

だって、僕たちはその状態を毎夜経験しています。
寝ている時はその状態です。

心地よくはありませんか?

もし、生きていても、死んでいても、
同じものを求めるのであれば、
死は恐れるものではなくなるんじゃないでしょうか?

生きている時と、死んでいる時の共通点。
それは空(くう)です。

先ほど、世界は3Dディスプレイに映し出されているようなものだったとしたらとお話しました。

なぜ、そんな話をしたのかというと、
3Dディスプレイが「空」だからです。

実在するのは3Dディスプレイだけで、
世界というのはその中に映し出されている映像みたいなものだ、
というのが空の概念です。

つまりは、あなたは、体でも心でもなく、
3Dディスプレイなんだということですね。

あなたという存在感は、
3Dディスプレイにあるということです。

あなたの中に、この世界が映っているということです。

信じられるでしょうか?

あなたの中に、
体と心を持ったアバター(あなたの化身)のような存在がいるということです。

アバターが死んでも、世界が存在しなくても、
あなたは3Dディスプレイとして実在します。

世界の中で得られる満足感というのは、
外からやってくるわけではなく、
あなたが最初から持っている本質です。

言ってみれば、満たされた状態というのは、
世界の状態に関係なく、ずっとそこにあるということです。

寝ている時に感じる心地よさというのはそれです。

永遠の存在を求めるのであれば、
生きていて、世界の中にある時でも、
それを求めるようにしてみてください。

実際のところは、
あなたは愛ではなく、
愛を映し出すものです。

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