瞑想を習慣にする人が、ある時、ふっと抱いてしまう疑念、それは「このまま瞑想を続けても、意味ないのではないか?」というものなんじゃないでしょうか。
当然、僕も抱いたことがあります。
瞑想を止めてしまったことだってあります。
日々の生活が忙しい場合には、なおさら、瞑想を続けることが困難な場合もあるんじゃないかと思います。
瞑想の効果がいまいち感じられないならなおさらです。
でも、ある段階までは、瞑想を続けることは重要なことだと、僕は思っています。
なので、今回は、瞑想を続けることに無意味さを感じてしまったときに、どう考えればいいのかということについて、お話したいと思います。
あなたが、瞑想をする目的は?
まず、最初に明確にしておきたいのは、瞑想をする目的です。
瞑想と一口に言っても、世の中には、様々な瞑想方法があります。
その目的も様々です。
瞑想というのは、本来の意味で言えば、「死」の状態をシミュレーションするものだと、僕は思っているのですが、中には、積極的にイメージを膨らませる瞑想もありますよね。
霊性を高めるための瞑想や、神秘体験を引き起こすことを目的とした瞑想もあるんじゃないかと思います。
僕は、そういった瞑想には、あまり詳しくありません。
なので、ここでは、あくまでも、「死」の状態をシミュレーションすることを目的とした瞑想を対象にお話しますので、ご了承ください。
瞑想と筋トレは似たものがあります。
瞑想って、筋トレと似たものがあるような気がしています。
すぐに効果が現れるわけではないという点においてですね。
例えば、知的な理解をともなう行為の場合には、その効果がわりとすぐに現れますよね。
本を1冊読めば、その本に書かれていた内容が、多少なりは頭の中に入ります。
そして、その内容を参照することができます。
(難解な本の場合には、頭に入ってこないこともありますが)
でも、瞑想とか、筋トレの場合には、そういった知的な理解はともないません。
なので、いまいち実感が得られにくかったりします。
最初のうちは、まだ良いと思います。
瞑想をするにしても、経験したことのない瞑想を実践してみるということは、新鮮だったりします。
筋トレの場合には、最初のうちは筋肉痛が起こることが多いので、「筋トレしている」っていう実感が得られやすいかと思います。
でも、しばらく経つと、瞑想を新鮮に感じる感覚は、薄れていきます。
筋トレの場合にも、筋肉痛が起こらなくなってきたりします。
僕は、筋トレを習慣にしています。
僕はデスクワークをすることが多く、肩こり解消のために、筋トレを始めてみたんですね。
ジムに行くといったことはしておらず、自宅で腕立て伏せ(朝)とスクワット(夜)をしています。
その習慣を始めて、もう3年目に突入するでしょうか。
腕立て伏せもスクワットも、10回以上できるようでは意味がないらしい(負荷が弱いらしい)ので、1回の下げ上げに5秒から10秒ぐらいかけて、ゆっくりと腕立て伏せとスクワットをしています。
スロートレーニングと呼ばれるものですね。
これ、実は結構きついんです。
今は、10回できるんですが、最初のうちは、腕立て伏せもスクワットも3回ぐらいが限界でした。
当然、筋肉痛になることも多かったです。
でも、筋肉痛になるということは、筋肉が付くということであり、数ヶ月もすれば、10回ぐらい簡単にできるようになるだろうと思っていました。
ところがどっこい、10回できるようになるには、2年近くかかってしまいました。
途中、「筋トレの効果があまり感じられないな」と感じることもありました。
「この筋トレの方法はあまり効果的じゃないのかな?」と思うこともありました。
でも、止めずに継続してやってこれました。
今も続いています。
その理由は、まずは、ジムに行かなかったことにあると思います。
僕は10年ぐらい前に、ジムに通ってみたことがあります。
でも、数ヶ月で結局行かなくなってしまいました。
面倒くさいんですよね。
まず、ジムに行かなければいけないというところが心理的ハードルになってしまいます。
なので、自宅でできる筋トレの方法を探しました。
そして、継続できた理由のもう1つは、筋トレの時間を1分以内にしたことだと思います。
筋トレというと、腕立て伏せ10回を3セットとか、ある程度のセット数をこなすメニューが多いと思いますが、それだと続かなくなると思って、ものすごくシンプルな筋トレ方法にしました。
スローな腕立て伏せを10回できるまでということにしました。
もしくは、限界がきたらそこで終わりです。
最初のうちは3回ぐらいしかできなかったので、30秒ぐらいですね。
今は10回やれているので、正確には1分以上なのですが、それでも2分は超えないと思います。
僕にとっては、歯磨きをするほうが、面倒くさく感じるぐらいです。
瞑想というのは、段々とシンプルになっていくべき。
瞑想というのは、1回あたり30分ぐらいかけるのが一般的なんじゃないかと思います。
短い場合には、20分とか15分とか。
長い場合には、45分とか1時間とかでしょうか。
僕の筋トレのように、1回あたり1分とかに比べると、継続するための心理的ハードルというのは結構高いと思います。
でも、「瞑想することには意味がある」と思えるうちは継続することができるはずです。
僕は、ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想合宿で、サマタ瞑想と、ヴィパッサナー瞑想を習いました。
(関連記事:サマタ瞑想のもっともシンプルなやり方【止行】)
(関連記事:サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いとは?)
ゴエンカ式では、自宅での1日2時間の瞑想を推奨していたと思います。
朝1時間、夜1時間ですね。
これ、かなりハードルが高いと思います。
合宿に参加したことがある人で、家に帰ってからも、それを継続できている人はどれくらいいるでしょうか?
僕は、気合いが入っていたので、合宿から帰ってきてからも、2週間ぐらいは、朝1時間と、夜1時間のヴィパッサナー瞑想を続けていました。
でも、飲み会とかに参加して、酔っ払って帰ってきたりすると、その習慣を続けることは難しくなります。
(そもそも、ゴエンカ式では飲酒を推奨してないと思いますが)
それでペースが乱れて、というか緊張の糸が切れて、1日2時間のヴィパッサナー瞑想の習慣は途切れてしまいました。
そもそも、「ヴィパッサナー瞑想を続けることに、意味はあるのか?」と思い始めていたのも影響していたと思います。
僕は、ヴィパッサナー瞑想を教わる前から、ハートとは何かに気がついていました。
ハートというのは、根拠のない至福感のことですね。
それが、ヴィパッサナー瞑想をすると、反対に、ハートを感じられにくくなるなと感じていました。
今思うと、それは当然なんです。
ヴィパッサナー瞑想というのは、頭頂から、足先まで、少しずつ意識を向けるポイントをズラしながら、体全体をスキャンしていくという瞑想方法です。
かなり、意志の力を必要とする瞑想方法です。
なのでゴエンカ式では、いきなりヴィパッサナー瞑想を行うことは難しいので、まずは、サマタ瞑想で1点に集中する力を身につけた上で、ヴィパッサナー瞑想にシフトしていくべきだと教えていると思います。
でも、それは少しおかしいのではないかと、僕は思います。
瞑想というのは、段々とシンプルになっていくべきだからです。
瞑想というのは、意志として、思考に支配されることなく、段々と複雑なことをできるようになることじゃありません。
意志として、なにもしなくても、思考に支配されなくなることが瞑想です。
でなければ、日常生活の中に瞑想を持ち込むことなんて不可能です。
すべての瞑想方法は、最終的には不要になります。
日常生活を送りながら、ヴィパッサナー瞑想を行うことは難しいです。
そんなことをすれば、周りの人からは、注意力散漫だと思われてしまうでしょう。
マントラを唱えながら日常生活を送ることも、現実的じゃありません。
瞑想の方法には様々なものがありますが、日常生活の中に持ち込める瞑想というのは1つしかありません。
意志として、なにもしないという瞑想方法です。
意志として、何かに気づこうとする必要なんてないんです。
気づきは勝手に起こります。
その後に、意志として、それを観察してみればいいんです。
ただ、思考に支配されることが多いうちは、意志として、なにもしない状態を保つことが難しいです。
なので、それまでは、瞑想を継続するということが重要だと思っています。
ただ、瞑想の方法には固執しないほうがいいと思います。
瞑想の方法には様々なものがあります。
人それぞれの状態に応じて、適した瞑想方法があると思います。
でも、最終的には、瞑想はシンプルになっていくべきです。
最後には、意志として何もしなくても良くなることを目標にするのがいいと思います。
(意志は、それを嫌がるという最大の問題がありますが)
そうすれば、真理の探求は、自然と瞑想的な日常生活へとシフトしていきます。
瞑想を続けていると、「瞑想を続けても、意味ないのではないか?」と思うこともあるかもしれません。
でも、そういった疑念は、ある意味では、神の恩寵かもしれません。
今、あなたが行っている瞑想は、何を目的としたものでしょうか?
もっと、シンプルにすることはできないでしょうか?
座る方法や、手順にこだわり過ぎてはいないでしょうか?
複雑なことをしようとはしていないでしょうか?
瞑想をすることで、何かが起こることを期待してはいないでしょうか?
修行としての瞑想は、意志として、何もしないでいられるための、単なる補助輪です。
最終的には捨てるものです。
なので、補助輪の、色や形、サイズ、性能などにこだわりすぎる必要はありません。
もし、「瞑想を続けても、意味ないのではないか?」と感じるなら、意味ないと感じる部分を、はぶいてしまったっていいんです。
瞑想時間を、極端に短くしたっていいと思います。
例えば、1分とか。
1分であれば、今、この瞬間からだってすぐに行えると思います。
仮に、電車の中でスマホでこの記事を読んでいる場合でも、1分であれば行えるんじゃないでしょうか。
もちろん、「1分じゃ、全然思考が落ち着かないよ!」と思うかもしれません。
であれば、次の日から、また瞑想時間を長くしたっていいんです。
なかなか思考が落ち着かないという場合には、マントラを試してみたっていいんです。
大事なのは、瞑想の方法に盲信的にならないことだと思います。
逆説的に言えば、瞑想の方法に盲信的になるからこそ、「この瞑想を続けても、意味ないのではないか?」という疑念が湧くという側面もあるんじゃないでしょうか。
もしかしたら、とある瞑想方法から、また、別の瞑想方法へと渡り歩く人もいるかもしれません。
瞑想ジプシーになってしまう人もいるかもしれません。
「これが唯一最高の瞑想方法だ!」というものはありません。
結局のところ、すべての瞑想方法は、最終的には不要になります。
意志として、何もしなくても、思考に支配されなくなることが本当の瞑想です。
そのことを理解した上で、瞑想と付き合っていくのがいいのではないかと思います。
(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?)