僕は、マインドフルネスをあまり勧めていません。僕自身、マインドフルネスを実践してきてはいません。極端なことを言えば、悟りを目指す人は、マインドフルネスをやらないほうがいいと思っています。でも、世の中では、マインドフルネスが悟りと関係があるように語られることもあります。ブッダや禅と関連づけられることもあります。でも、それは勘違いなんです。その理由についてお話します。
マインドフルネスは、初心者向きじゃありません
単純な話として、マインドフルネスは初心者向きじゃありません。例えば、自転車に乗れない人に対して、「一日中、自転車に乗り続けてください」と言うのは無理がありますよね。そもそも、自転車に上手に乗れないんですから。初心者に対して、マインドフルネスを勧めるということは、それに似ています。
マインドフルネスというのは、日常生活の中で、瞑想を実践しようとすることです。目の前の状況に合わせて、瞑想対象を、臨機応変に変えていきます。例えば、道を歩いている時には、足が動く感覚に意識を向けて集中します。横断歩道では、信号の赤い光に意識を向けて集中します。ごはんを食べている時には、味覚に意識を向けて集中します。皿を洗っている時には、皿と指が触れる感覚に意識を向けて集中します。日常生活の中で、普段は無自覚に行っている行為に対して、意図的に意識を向けて集中するということです。そうすることによって、雑念が湧くことを抑える効果が期待できるかもしれません。
でも、マインドフルネスの概念を理屈的には理解できたとしても、それを初心者の人が実践できるでしょうか? 初心者のうちは、意識を集中させ続けるということが難しいです。何かに意識を集中したとしても、いとも簡単に、何か考え事を始めてしまいます。そんな初心者が、集中力を保ち続けるマインドフルネスを実践するなんてことができるんでしょうか? もちろん、「マインドフルネスであろう」と思うことはできると思います。最初のうちは、マインドフルネスを実践しようとしているという高揚感みたいなものがあるかもしれません。でも、実際のところは、「よし、歩く足の感覚に集中しよう」と思った次の瞬間には、無自覚に何か考え事を始めてしまうかもしれません。あまりにも実践が難しいことは、なかなか継続はできません。
であるなら、まずは時間制限があり、屋内で実践でき、瞑想対象が決まっている、一般的な瞑想から始めればいいんじゃないでしょうか? サマタ瞑想や、ヴィパッサナー瞑想や、マントラ瞑想などです。少なくとも、初心者が選ぶ最初の瞑想方法として、マインドフルネスを選ぶという理由は無いのではないかと思います。
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上級者にとって、重要なのはマインドフルネスではなく、マインドレスネスです
一般的な瞑想に熟達してくるならば、日常生活の中でも、マインドフルネスを実践できるようになってくるかもしれません。「マインドフルネスを極限まで実践した先に、悟りがあるのではないか?」と思う人もいると思います。でも、上級者になってくると、次に重要になってくるのは、マインドフルネスであることではなく、〝マインドレスネス〟であることなんです。
例えば、禅では、〝坐禅〟と〝瞑想〟という言葉を区別して使っています。一般的な感覚で言えば、「どちらも同じようなものなんじゃないか?」と思うかもしれません。でも、禅では、この2つの言葉を明確に分けて使っているのではないかと思います。本気の禅者ほど、「私は〝瞑想〟を実践しているわけではなくて、〝坐禅〟を実践しているんだ」という自負があるんじゃないかと思います。ただ、皮肉なことに、いきなり〝坐禅〟を実践できる人はいないんです。「私は〝坐禅〟を実践しているんだ」と思っていても、実際のところは、それは〝瞑想〟になってしまっていることも少なくないんじゃないかと思います。
禅の曹洞宗では、〝坐禅〟の状態を〝心身脱落〟と呼ぶのではないかと思います。それは、何かを意図しようとしている心身が脱落している状態です。簡単に言えば、自我が消えている状態です。それは、坐禅(実際のところは瞑想)をしようとする意図すら消えている状態です。なので、それは〝瞑想〟ではないんです。坐禅を実践する人は、心身脱落している時に、〝仏性〟を発見するのではないかと思います。仏性とは、仏の本質であり、仏が、心身から解放された感覚です。その感覚は三昧(サマーディ)とも呼ばれたりもすると思います。僕は、その感覚を〝ハート〟と呼んだりもします。仏性を発見することは、〝見性〟と呼ばれ、それは悟りのひとつだとされていると思います。
心身脱落した状態は、〝マインドレスネス〟です。なので、禅がマインドフルネスを推奨するというのは、少しおかしいんです。マインドフルネスというのは、日常生活の中でも〝瞑想〟を実践しようとする試みです。でも、禅では〝坐禅〟と〝瞑想〟を明確に区別しています。日常生活の中で瞑想を実践できたとしても、心身脱落していなければ、禅の本質を見誤ってしまうんじゃないでしょうか?
悟りを目指すなら、マインドフルネスを実践する必要はありません
マインドフルネスという言葉は、最近作られた造語でもあります。Wikipediaにはこう書かれています。
医療としてのマインドフルネスは、禅を学んだアメリカ人分子生物学者のジョン・カバット・ジンが1979年にマサチューセッツ大学で、仏教色を排し現代的にアレンジしたマインドフルネスストレス低減法(MBSR)を始めたことが端緒となっており、この新しい精神療法の基本理念は道元禅師の曹洞宗であった。
マインドフルネスは、もともとは、精神療法のために開発されたものであり、それが仏教と結びつけられているのは、開発者であるジョン・カバット・ジン氏が禅を学んでいたからなのでしょう。ただ、ジョン・カバット・ジン氏が、〝坐禅〟と〝瞑想〟を区別できているのかというと、それは疑わしいのではないかと思います。マインドフルネスでは、心身脱落の重要性は説かれておらず、むしろ、心身を強化することを目的にしているようなところがあるからです。
確かに、無自覚に思考が暴走してしまっているときに、意図的に、目の前の何かに集中して、気を落ち着かせるということは、精神療法には良いのかもしれません。例えば、イライラしはじめたら、意図的に空を見上げて、雲を観察してみるとかですね。その程度であれば、初心者にも勧めることができるかもしれません。ただ、それが悟るための修行にもなると誤解されると、話がおかしなことになってしまいます。真面目な人ほど、徹底的にマインドフルネスを実践しようとするかもしれません。でも、人の集中力はそう長くは続かないものです。集中力が追いつかないにも関わらず、「マインドフルネスであらねばならない」という思い込みが先行すると、それは強迫観念となって心身を苦しませるようになるかもしれません。
人は、ひたすら努力すれば悟りが得られるという考え方を支持したがります。マインドフルネスを極限まで実践することで悟りが得られると考えられることも、その反映でしょう。でも、真理には逆説がつきものです。例えば、最古の仏典と呼ばれる『スッタニパータ』にはこう書かれています。
有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。(759・760・761)
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好ましく感じられる、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるもの。それらを意図的に観察することを、マインドフルネスと呼ぶこともできるかもしれません。それは「安楽」に感じられるかもしれません。でも、ブッダは、自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」であって、それは、世間の人々の考えとは正反対だと言います。自己の身体を断滅するというのは、ここでは〝心身脱落〟と言ってもいいと思います。でも、ブッダの言うことを信じられる人はどれだけいるでしょうか? 一般的な感覚でいえば、〝心身脱落〟するということは、好ましく感じられる対象すら失うということであり、それは単に、「苦しみ」を味わうだけなんじゃないかと思う人も少なくないと思います。
坐禅というのは、それが本当なのかを確かめる手段でもあります。瞑想することによって、「安楽」に感じられることもあると思います。でも、それは瞑想対象という原因があるからかもしれず、ブッダの言葉が本当かどうかを確かめることはできません。それを確かめるには、瞑想対象を失うしかありません。〝心身脱落〟です。人によっては、「マインドフルネスを極限まで実践すれば、結果として、心身脱落するのではないか?」と思う人もいるかもしれません。でも、それは、過労で倒れれば、心身脱落することができると言うようなものです。〝心身脱落〟するのに理由はいりません。今、沈黙すればいいだけです。実のところ、必ずしも、坐る必要もなかったりします。仏性に坐すること。それが〝禅〟です。それは、マインドフルネスとは正反対の方向性です。