仏教やアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは「無知」という言葉が使われたりします。
普通に考えるならば、無知というのは知識が無いことであるように思えますよね。
現代においては、脳に蓄積される情報のことを知識と呼ぶのではないかと思います。
でも、その認識でいくと、おそらく「無知」という言葉を理解できません。
実は、2000年以上前のインドでは、知識という言葉は、「無条件に満たされている状態(私は在る)」のことを指して使われています。
ヴェーダとは「知識」という意味です。
ヴェーダを知るということは、情報を知ることではなく、自分は無条件に満たされていることを知ることなんです。
その反対に、無知とは、満たされるためには条件が必要だと思っていることです。
無知と似た言葉で無明という言葉がありますが、無明とは無知であることです。
どちらも同じような意味として捉えてもいいと思います。
赤ちゃんは無知ではない?
赤ちゃんは無知でしょうか?
それとも無知では無いんでしょうか?
もし、知識とは脳に蓄積されている情報のことだと認識するのであれば、赤ちゃんは無知でしょう。
でも、知識とは「無条件で満たされている状態」であるならどうでしょうか?
赤ちゃんは無知では無いのかもしれません。
何らかのアピールのために、泣いたりわめいたりすることはあると思います。
でも、赤ちゃんは基本的には満たされているように見えるんじゃないかと思います。
赤ちゃんがボーっと天井を見上げている時、赤ちゃんは何を感じているんでしょうか?
大人みたいに、「あ〜、退屈だ……」とか思ったりしているんでしょうか?
そうじゃないと思います。
無条件に満たされた感覚の中にいるんじゃないでしょうか?
少なくとも、なんらかの不満を抱えているようには見えないんじゃないかと思います。
実のところ、赤ちゃんは「知識」を知っているんです。
人は、記憶と感情が結びつくことで無知に陥ります
人は成長するに従って、赤ちゃんの頃には知っていた「知識」を忘れて無知に陥ります。
皮肉にも、知識を得ることによって無知に陥るんです。
人は、3歳ぐらいになると自我が芽生え始めます。
喜怒哀楽の感情も現れ始めます。
どんな時に嬉しいと感じて、どんな時に怒りを感じて、どんな時に悲しいと感じて、どんな時に楽しいと感じるのか、記憶と感情が結びつき始めます。
それはきっと、今だってそうですよね。
多くの人が、記憶と感情を結びつけているはずです。
そして、悲しい感情を避けて、楽しいとか嬉しい感情を追い求めるようになるんじゃないでしょうか?
場合によっては、怒りの感情を追い求めることもあるかもしれません。
でも、「知識」はどこに行ってしまったんでしょうか?
喜怒哀楽の感情には条件があります。
こうなったら嬉しいとか、こうなったら悲しいとか。
なので、多くの人は無自覚に、心地よい感情を得るには条件が必要だと認識しているんです。
例えば、頭が良くないといけないとか、お金がなければならないとか、身体能力に優れていなければならないとか、霊性が高くなければならないとか、結婚しなければならないとか。
心地よい感情を得るために、様々な条件で自分を縛るようになります。
これが無知と呼ばれるものなんです。
「知識」はどこに行ってしまったんでしょうか?
知識には条件はありません。
無条件に満たされていることを知っていることが知識です。
人は、どこかで「知識」を忘れてしまい、無知に束縛されるようになります。
知識は、あらゆる感情を凌駕した至福感じゃありません
知識には至福感がともないます。
仏教では涅槃寂静、ヴェーダーンタではアーナンダ、キリスト教では聖霊、いろんな宗教で、至福感を意味する言葉が使われています。
もちろん、知識というのはそういうものです。
でも、ともすれば、人は知識に対して過剰に期待をしてしまうことがあります。
「無知を捨てて知識を得るなら、あらゆる感情を凌駕した至福感に浸ることができるんだ」と期待してしまったりします。
もちろん、そんなことはあり得ないわけです。
だって、もしそうなのだとすれば、多くの人は、知識を手放すことなんてなかったでしょう。
知識を忘れてしまうことなんてなかったでしょう。
多くの人は、自ら知識を手放して、心地よい感情を求め始めたんです。
その結果、知識を忘れてしまったんです。
知識というのは、あらゆる感情を凌駕したような至福感じゃないんです。
未知のものじゃありません。
もし、そういった感覚を想定して追い求めるのであれば、無知はさらに深くなっていきます。
知識とは、心地よい感情を追い求めることから解放されている状態です。
赤ちゃんの頃には、感情を追い求める自我がまだ芽生えていないため、知識から彷徨い出ることがなかったんです。
でも、自我が芽生えると、自我は心地よい感情を求めて、知識から彷徨い出るようになります。
むしろ、自我にとって知識とは、魅力的に思えないものなんです。
もし、心地よい感情を求めることなく、何もない状態にとどまり続けるのなら、自我はどう感じるでしょうか?
「退屈……」って感じるんじゃないでしょうか?
実のところ、知識は退屈の中にあります。
ただ、自我が知識を「退屈……」って感じているために、知識が退屈であるかのように感じられているだけなんです。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
自我は刺激中毒者です。
つねに心地よい感情を求め続けています。
毎日のようにコーラやコーヒーなどの刺激の強いものを飲んでいると、水じゃ物足りなく感じるのと少し似ているかもしれません。
知識というのは、決して超強炭酸コーラじゃありません。
超濃縮エスプレッソでもありません。
知識は水です。
水だって美味しいですよね?
まあ、実際のところは水でもなく、知識とは、何かを求めることが無い解放的な状態です。
無いものが無くなることはないので、それは尽きることがありません。
でも、そうは感じられないなら、ある程度はリハビリが必要かもしれません。
刺激を求めることを控えて、水に慣れていくようにすればいいんです。
そうすることで、人は知識を思い出すことができるかもしれません。
無知を捨てることができるかもしれません。
(関連記事:退屈が怖いと感じるのはなぜなのか?【退屈の恐怖】)