前回、「今すぐ苦しみを手放す方法【理想論】」という記事を書きました。
なんと、それに対して、うちの妻から質問のメールがやってきました。
しかも、なぜだか、読者を装って風の文体。。
このブログで答えていいとのことなので、お答えしようと思います。
僕は、普段、妻に話すようなフランクな文体で回答するのでご了承ください。
【妻からの質問】
記事を読ませていただきながら、 「理想」の定義が、自分の中でぼんやりしてきてしまい、ちょっとこんがらがってしまったので、 直さんに質問です。
直さんが言ってるのは 苦しみから解放されるには、 「〜べき」 「〜しなくては」 「俺は〜の使命があって〜しなくてならない」 を手放す、 ということだと思うのですが、これは、「理想」というより、「思考•認識•思い込み」のほうが、わたしにはしっりくる感じがしていまして。
「理想」とは、 「〜だといいな〜」 「〜なったらいいな〜」 ということで、 これを持つのは、別に苦しみを生まないと思ったのですが、どうでしょうか?
苦しみが生まれてしまうのは、 この「理想」に執着してしまうから、なのかなと思い。
「〜だといいな〜、でも〜じゃなくても仕方ない」 「〜になったらいいな〜、でもなれなくてもいい」って、 「理想」を持ちながら、「降参」「あきらめ」の境地も一緒に自分の中にちゃんと持っておく、みたいな感じです。
「理想」って、その人それぞれに元々埋め込まれている「本能」のようなものじゃないかと感じていて、例えば、 「平和の世界で生きたい」 「安心して生きたい」 「好きな人と一緒にいたい」 「好きなものに囲まれたい」 「自由に生きたい」 など。
苦しみは、 その「理想」の土台の上に、自分の「思い込み」がいろいろくっついてくるから、生まれてきちゃう。
「理想の平和の世界で生きたいから、世界平和運動に貢献しなきゃ」
「安心して生きるには、お金持ちにならなきゃ」
「好きな人と一緒にいるには、好きな人に尽くさなきゃ」
「好きなものに囲まれるには、好きなものをどんどん手に入れなきゃ」
「自由に生きたいから、人の言うことは聞かない、従わないようにしよう」
とか。
「理想」を手放していくのではなく、この「思い込み」のところを手放していくことが、 苦しみを生まないコツだと思ったのですが、どうでしょうか?
根本の「理想」って、本能のようなものだから、手放すって、かなり不可能だと思ってしまいます。
たぶん、直さんの言ってることも同じようなことだと思うのですが、 どうでしょうか???
【回答】
そうそう。
「理想」っていうのは本能のようなもので、手放すっていうのはほとんど不可能なんだよ。
だからこそ、理想を手放せば、苦しみは消えるというのは「理想論」。
言ってみれば、「理想」っていうのは「カルマ」みたいなものであり、「感情」でもあり、「自我」「自分」そのものなんだよ。
なので、多くの人にとっては、手放すなんてあり得ないわけ。
というか、どうやって手放せばいいのかも分からないんだよ。
以前「自分自身を「明け渡す」とか「手放す」ことはできません」という記事でも書いたけど。
一方、「思考」「認識」「思い込み」というのは、観察対象だから、手放そうと思えば、手放すことができそうに感じるんだよね。
だって、瞑想したりしていると、気がつくことがあるでしょ。
「あ、自分にはこんな思い込みがあったんだ」とか。
自分から離れているものだから、手放せるように感じられる。
でも、自分が何を「思考」して、どんな「認識」を持って、どんな「思い込み」を持つのかということはコントロールできないんだよ。
気がつくことはできるけれども、コントロールはできない。
それをコントロールできるように感じられるというのが、まさしく、苦しみの第一原因なんだよ。
自我は、それをコントロールできるように感じているんだよ。
で、なぜ、コントロールしたがるのかというと、まさしく、「理想」を持っているから。
理想と現実を比較して、自分が「思考」「認識」「思い込み」といったものをコントロールすれば、理想を現実にできるんじゃないかと思うわけ。
でも、それが上手くいかないと、「苦しみ」がやってくる。
「あきらめ」の境地を持っていようとしても、苦しみがやってくるときはやってくる。
で、「苦しみ」がやってくると、「苦しみ」すらコントロールしようとする。
どうすれば、苦しみをコントロールできるかを考え始めるわけ。
でも、それは上手くいかないんだよ。
「理想」と「苦しみ」っていうのは、一心同体みたいなものなんだよ。
マトリックスで言うなら、「ネオ」と「スミス」の関係なんだよ。
マトリックスの最後、ネオはスミスに取り込まれることによって、スミスを倒すじゃない?
それって、ネオという理想が消えてしまったからこそ、スミスという苦しみが存在できなくなってしまったということなんだよ。
苦しみを受け入れることによって、理想と共に苦しみが消えて無くなると。
で、平和がやってくる。
「思考」「認識」「思い込み」というのは、この世界で、人とか動物が活動するために必要なものだから、そのまま機能し続けるんだよ。
そこには問題がないの。
この話は自我としては受け入れがたいんだけどね。
(関連記事:そもそも、自我ってどういうものなのか?【エゴとは?自我とは?】)
「あなたは一体誰なのか?」ということ。
でも、耐え難い苦しみがやってくるまでは、この世界をコントロールできると感じている存在として、この世界を楽しめばいいんだよ。
問題はナッシング。
こんな感じでいかがでしょうか?