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苦しみ

今すぐ苦しみを手放す方法【理想論】

人生には、苦しみが付きものです。

今まで生きてきた中で、1度たりとも苦しんだことがないという人はいないでしょう。

どんなに恵まれた環境に生まれた人でも、苦しんだことがない人はいないはずです。

ブッダこと、ゴータマ・シッダールタも、自分が老いていくこと、やがては死ぬ運命にあるということに苦しみ、王子の地位を捨てて、修行の旅にでました。

人生には、苦しみは付きものとはいえ、できれば、苦しみたくなんかないというのが、本当のところだと思います。

でも、どうすれば、苦しみを無くすことができるんでしょうか?

理想を手放せば、苦しみは消えます。

結論から言えば、理想を手放すことができるのであれば、今すぐ、苦しみは消えます。

理想というのは、例えば、

「私は、多くの人と共感し合いたい」

「私は、秒速で年収1億円になってリッチな生活を送りたい」

「私は、孤独にはなりたくない」

「私は、結婚して、子供も作って、幸せな生活を送りたい」

「私は、霊的に成長しなければならない」

「私は、死にたくない」

「私は、悟りたい」

「私は、世界を救わなければならない」

とか、そういったものです。

苦しみというのは、簡単に言ってしまえば、理想と現実のギャップです。

理想と現実が違うからこそ、人は苦しみます。

であるならば、理想を捨ててしまうのであれば、苦しむことはなくなるんじゃないでしょうか?

今、この瞬間、目の前に何か問題はあるでしょうか?

今、あなたは、このブログを読んでいます。

ということは、あなたは、身の危険のない場所にいるということでもあります。

戦場で、このブログを読んでいる人はいないでしょう。

次の瞬間、死ぬかもしれないという状況で、このブログを読める人はいません。

「バキューン、バキューン」と銃弾が飛び交っている中、スマホ片手に、このブログを読もうとする人はいないはずです。

もし、いるのであれば、戦闘に集中したほうがいいと思います。

また、明日には餓死してしまうという人も、今、このブログを読んでいる場合じゃありません。

食べ物を求めて、行動を起こさないといけません。

このブログを読んでも、お腹が満たされることはありません。

ということは、今、このブログを読んでいるあなたには、今、特に大した問題はないということなんじゃないでしょうか?

自宅の部屋で、このブログを読んでいるかもしれません。

もしくは、電車やバスの中で、このブログを読んでいるかもしれません。

もしくは、仕事中に、こっそりと読んでいる人もいるかもしれません。

あなたの目の前に、今この瞬間、苦しまなければいけない、なにか大きな問題はあるでしょうか?

理想を手放すなんてできない?

いや、言いたいことは分かります。

「とはいえ、実際問題、私は今苦しんでるんだよ!」って声が聞こえてきそうです。

確かにその通りです。

苦しみは、まるで物理的な存在かのように、あなたの胸を締めつけているはずです。

僕も経験していますし、それはよく分かります。

ただ、何がそうさせているのかを、理解する必要はあります。

少なくとも、目の前の状況が、あなたを苦しめているわけではないということは、理解する必要があります。

あなたを苦しめているのは、あなたの理想です。

「世界はこうあるべきだ!」

「私はこうあるべきだ!」

という理想が、あなたを苦しめているんです。

目の前の世界そのものが、今、あなたを苦しめているでしょうか?

思考やイメージ、価値観、記憶といったもの無しに、あなたは苦しむことはできるでしょうか?

できないはずです。

なので僕は、理想を手放せば、苦しみは消えると言います。

ただ、「はい、そうですか」と、簡単に理想を手放すことはできないということもよく分かります。

理想を手放すということは、まるで、自分自身の存在理由が無くなってしまうかのように感じるんじゃないでしょうか?

このブログを読んでいる人の中には、

「私には使命がある」

「私には天命がある」

と言う人もいるかもしれません。

僕も、8年ぐらい前、自分の使命や天命というものがあるのであれば、知りたいと思っていたことがありました。

そういった人にとっては、理想を手放すということは、特に、受け入れがたいことでしょう。

理想を手放すということは、使命や天命を手放すということと、同じだからです。(本当は理想を手放すことによって、使命や天命を全うできます)

言ってみれば、理想を手放せば、苦しみは消えるというのは「理想論」です。

理屈的にはそうであったとしても、実際に実践することは極めて難しい詭弁のようなものです。

理想を追い求めるか?苦しむことに飽きるか?

じゃあ、どうすればいいのかというと、選択肢は2つしかありません。

理想を追い求めるか、苦しむことに飽きるかの2つです。

もし、理想を追い求めることに情熱が湧くのであれば、迷うことなく、理想を追い求めることをオススメします。

例えば、ラマナ・マハルシは、「欲(理想)の追求は火に油を注ぐようなものです」と言います。

確かにそうなのですが、僕は「油が切れれば、火もまた消える」とも思います。

実際のところ、僕も欲の追求をしてきました。

幸か不幸か、僕の欲の追求は、そこそこ上手くいきました。

欲を追求するための、十分な情熱も湧き上がりました。

欲の追求に、情熱は不可欠です。

ただ、それでも、満足することはできませんでした。

どこか、コレジャナイ感が残りました。

もちろん、欲の追求には限りがありません。

それは、利他的であろうが、利己的であろうが同じです。

「もっと、もっと!」

と追求していくこともできたはずです。

でも、僕は、直感的に、「この延長線上には自分が求めているものは無いだろうな」ということが分かっていました。

人生には、やらずとも分かることがあるものです。

そして、情熱は消え、どこに向かっていいのか分からない苦しみがやってきました。

自分の理想を、具体的にイメージできるうちは幸運だとも言えます。

理想を本当に追求するのであれば、最後には、何が理想なのかが分からなくなります。

それが何だか分からないものを、追求することはできないし、かといって、それが何だか分からないものを、手放すこともできません。

何かを求めているんだけれども、一体、何を求めているのかが分からないという、ジレンマというか、苦しみがあります。

理想を追い求めることに成功したとしても、結局は、この苦しみがやってきます。

そして、多くの場合、理想を追い求めても、失敗に終わることが多いんじゃないでしょうか?

結局のところ、苦しみを避けることはできません。

始まりがあるものには、終わりがあります。

でも、だからといって絶望することもありません。

もちろん、「今、苦しんでいる真っ最中だ」という人に、絶望する必要はないと言っても、気休めにもならないでしょう。

苦しみは幻想だとか、苦しみは勘違いだという言葉も、気休めにもならないでしょう。

ただ、これだけは言えます。

その苦しみには、終わりがあります。

楽しいことにも、いつかは飽きるように、苦しいことにも、いつかは飽きます。

ブッダはこう言います。

「始まりがあり、終わりがあるものを求めるのではなく、始まりもなく、終わりもないものを求めなさい。」

苦しみには、始まりもなく、終わりもないんでしょうか?

ということは、苦しみこそ、求めるべきものということになります。

本当にそうでしょうか?

それを、確かめてみてはどうでしょうか?

苦しみを和らげる方法は、いくつかあります。

例えば、娯楽とか、セラピーとか、カウンセリングですね。

そういったもので、一時的に苦しみを和らげることはできるかもしれませんが、根本的な解決は難しいでしょう。

理想を追い求めるということも、苦しみを紛らわせるためのひとつの方法です。

でも、そこに情熱が伴わないのであれば、それをする必要はありません。

余計苦しくなります。

興味もないのに、それをやらなければいけないということは、かなり苦しいでしょう。

この世界は、行動することを良しとする社会になっています。

まあ、世界に執着があるからこそ、人は生まれるので当然と言えば当然ですが。。

なので、多くの人は、良かれと思って、人に行動することを勧めます。

「こうしたら楽しいよ」とか。

宗教がかってくると、

「あなたは、世界を救うためにこれをしなければならない」とか。

でも、行動することに、興味も情熱も湧かない人にとって、それは酷なものです。

(関連記事:現実から逃げるってどういうことか?

そして、多くの場合、そういった苦しみは、理解されません。

でも、それを、他人に理解してもらう必要はないんです。

他人に理解してもらおうとするのではなく、他でもない、あなたが、それを理解する必要があります。

苦しんでいるのは、あなたでしょうか?

あなたは、自発的に、胸にその苦しみを作り出しているんでしょうか?

そうじゃないはずです。

勝手に、その苦しみが現れているはずです。

だとするならば、その苦しみは、あなたでは無いんじゃないでしょうか?

あなたは、そこに苦しみがあることに気がついているだけです。

言ってみれば、最も身近な隣人が、今、苦しんでいることに気がついているんです。

そして、そのことに気がつけるのは、他でもない、あなただけです。

他の人は、あなたの体の状態には、気がつくことができます。

でも、その苦しみには、気がつくことができません。

過去の苦しみの記憶から「こんな風に苦しんでいるんだろうな」と想像することはできます。

共感しようとすることはできるかもしれません。

でも、他の人は、その苦しみを、直接知ることはできません。

中には、その苦しみを知ることができるという人もいるかもしれません。

超能力を持つ人とかですね。

でも、その人は、その苦しみを癒やすことはできません。

もし、癒やすことができるという人がいるのであれば、それは、とんだ思い上がりです。

できることは、せいぜい、新たな理想を握らせて、苦しみを紛らわせることだけです。

本当の意味で、その苦しみを癒やすことができるのは、他でもない、あなただけです。

そして、そもそも、そこに苦しみがあるのは、あなたが、過去に、不用意に理想を握りしめてしまったからです。

「私は、もっと社交的にならなければならない」

「私は、幸せになるべきだ」

「私は、もっと痩せなければならない」

「私は、MBAの資格を取るべきだ」

「私は、もっと人から愛されたい」

「私は、特別な存在でありたい」

といった、理想を握りしめたおかげで、今、最も身近な隣人が苦しんでいるのかもしれないんです。

であるならば、あなたは、その苦しみを見守る責任があります。

この世の中で、唯一、その苦しみに気がつける存在が、その苦しみを避けて、意識を外に向けるとしたらどうなるでしょうか?

その苦しみは、余計に大きくなります。

孤独感も増すでしょう。

孤独感を感じているのは、あなたじゃありません。

最も近くの隣人が、孤独感を感じているんです。

一体、誰が、その孤独感、苦しみを癒やしてあげられるでしょうか?

(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと