今回は、YAさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。
YAさん、ありがとうございます。
テーマは、真理の指導でお金を取るということについてです。
YAさんからの質問
初めまして。
プンジャジの本の内容について調べているとき、偶然こちらのブログに辿り着きました。
それ以来、母と一緒に更新を楽しみにさせて頂いております。
山家さんは真理についていつも驚くような角度で切り込んでくださるので、記事を読むたびに新たな発見がある毎日です。
出会えたことに感謝しております。
本日は以前より山家さんにお伺いしたい疑問があり、質問させて頂いた次第です。
ご返答頂ければ幸いです。
◇真理の指導でお金を取るということについて
私と母は元々スピリチュアルに興味があり、長年に渡り様々なヒーラーや宗教というものを巡っておりました。
期間が被っていたわけではなく、一つのところに短期間学んで次に行くという感じです。二年ほど前からは何処へも行かなくなり、今は山家さんのブログやTwitter、そして、ラメッシなど聖人の本を通して学ぶ日々を送っております。
そうした中でずっと疑問だったことなのですが、真理を語り愛を謳う宗教やスピリチュアルは巷に溢れていますが、お金を対価として求めずにそういうことをやる人々は本当にいないように思います。
私が知る限り、聖人以外のほとんどの人はお金を取っています。
特にスピリチュアル系はそういう傾向があり、一回のセッションで何万〜何十万も請求する人は少なくありません。
ラマナ・マハルシは彼を求めてきた人から対価として何も求めず、清貧を貫き、真理へ多くの人々を導いて生涯を終えました。
当方の理想としては現代でも真理を語る立場にある人にはそのような姿勢であって欲しいと思っております。
やはり真理を語りながら多額のお金を取ることには疑問が残りますし、そういった人々は本気で人を教え導く気がなく、ただお金儲けに走っているように思えました。またその人たちは私の目から見てですが、本当の覚者ではありませんでした。
また、たとえ教えた対価として受け取るのが少しのお金であり、その人が覚者であっても、真理を教えた対価として収入を得て生計を立てていたりした場合、そこで疑念が生じてしまいます。生計を立てるため、自分のために真理を利用するべきではないという意見だからです。このように、かねてから真理とお金の関係については大変疑問を感じておりました。
プンジャジやラメッシはきちんと職についておられましたし、貰った対価によって生計を立てたりすることはなかったと記憶しています。
お金を受け取っていたかについては分かりません。
真理を教えた対価を貰うことについて、山家さんはどのようにお考えでしょうか?
小額ならばいいのでしょうか?また、それで生計を立てなければよいのか?それとも、覚者ならば一切受け取るべきではなく、与えられたもの(お金以外)は喜んで受け取り、あとは自分で賄う、あるいは清貧に暮らすべきなのでしょうか?
ご教示頂ければ幸いです。
何卒よろしくお願い致します。
回答
YAさん
こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
親子で空白JPを読んでいただいているとのことありがとうございます。
お金についてはそのうち記事にしたいと思っていたので良い機会でした。
> 真理を教えた対価を貰うことについて、山家さんはどのようにお考えでしょうか?
> 小額ならばいいのでしょうか?また、それで生計を立てなければよいのか?それとも、覚者ならば一切受け取るべきではなく、与えられたもの(お金以外)は喜んで受け取り、あとは自分で賄う、あるいは清貧に暮らすべきなのでしょうか?
こちらについては、答えは無いと言うのが良いのかもしれません。
覚者とはいっても、この世界の中では体を持った個人であって個性があります。
なので、お金に対する考え方も違ったりするんです。
覚者や聖人すべての人が画一的な考え方をするというほうが不自然なのではないかと思います。
生きている限り、お金と無関係でいられる人はいないんです。
例えば、ラマナ・マハルシは確かにアルナーチャラ山に着いてからはお金に触れなかったかもしれません。
でも、ラマナアシュラムにはお金の流れがあったのではないかと思います。
「ラマナ・マハルシとの対話」の中には、ラマナアシュラムに税務局の調査が入るエピソードが書かれていたりします。
ラマナ・マハルシ本人が応答していますし、ラマナアシュラムにお金の流れがあることをラマナ・マハルシ本人も理解していたでしょう。
そして、そのことを否定はしなかったと思います。
また、ラマナアシュラムが、ある時から寄付を受け取るようになったということもどこかに書かれていたと思います。
そのことに、ラマナ・マハルシ本人が無関係であるということも考えにくいかと思います。
ある意味では、ラマナアシュラムとしての生計を立てるために、それを許可したのかもしれません。
また、ラマナアシュラムが強盗に襲われるという事件も起こっていたと思います。
もしかしたら、ラマナアシュラムにはお金があるという噂が起こっていたのかもしれません。
ラメッシ・バルセカールの場合には、探求が終わったのは銀行の頭取を定年退職してからだったと思います。
頭取を務めたぐらいなので、お金は十分にあったのだと思います。
それでも、存命中に書籍を出版していたと思うので、著作料は入っていたのではないかと思います。
プンジャジについては、YouTubeの動画を見る限り、かなり大規模なサットサンを行っていたのではないかと思います。
あれが自宅なのかどうかは分かりません。
もし、なにかしらの施設だったとするなら、なんらかの運営組織があって、そこにはお金の流れがあったのかもしれません。
また、プンジャジについても、存命中に書籍を出版していたと思うので、著作料は入っていたのではないかと思います。
大抵の場合、探求中だろうと、探求が終わろうと、それまでの個人的価値観が継続する傾向が高いのではないかと思います。
僕の場合には、真理についての話だから特別という考え方はあまりしません。
先日、電子書籍を出版しましたが、真理についての本というよりも、娯楽作品として出版したという考え方をしています。
そして、価格も、「娯楽作品として適切なのか?」と考えます。
僕は、10年ぐらい前から自分ひとりの会社を経営しており、ビジネスについてのコンサルティングを受けたこともあります。
もちろん、価格は高いです。
数万円とか数十万円とかすることもあります。
でも、それ以上の価値があると思うからこそ受けるわけです。
実際のところ、僕にとってはそれ以上の価値がありました。
でも、真理についての話というのは、基本的にはお金になりません。
むしろ、逆ですよね。
お金への執着を落とすことを勧められたりします。
なので、僕は、真理についての話にビジネスのコンサルティング並みの高い価格をつけることはできません。
数年前、僕は、渋谷のセルリアンタワーホテルのラウンジで、たまたまMacBookを広げて仕事をしていたことがあります。
そのときに、向かいの席から話し声が聞こえてきました。
どうやらセミナー業者が打ち合わせをしていたようです。
その話を聞く限り、どうやらセミナーの内容は決まっていなくて、ターゲットだけが決まっていたようです。
そのターゲットというのが、スピリチュアルな人達です。
僕はそのとき初めて、スピリチュアルな人達がビジネスのターゲットにされているんだということを認識しました。
セミナーといえば、自己啓発系の方向けというイメージがあったので、意外でした。
なので、スピリチュアル系の一部には、かなりビジネスよりの考え方が浸透しているのではないかと思います。
とはいえ、こういったことは僕個人の考え方です。
OSHOはまた違った風に考えると思います。
OSHOは、物質至上主義のアメリカ人を挑発するために、ロールスロイス(超高級車)をズラッと並べていたそうです。
真理は物質の豊かさと無関係ではないということのアピールだったのかもしれません。
そういったパフォーマンスに惹かれて、OSHOのコミュニテイにやってくる人もいたかもしれません。
もちろん、OSHOについては賛否両論あるかと思いますが、覚者や聖者だからといって、お金と無関係でいる必要はないということなんです。
むしろ、お金と無関係でいることはできず、それぞれの個性にしたがって、お金と関わることになるということですね。
もし、YAさんが真理を悟るなら、真理の指導でお金を取らないほうがいいと考える覚者になるかもしれません。
もともとは、僕もYAさんと似たような考え方をするタイプでした。
でも、そういった考え方も変わったりします。
例えば、ラマナアシュラムが寄付すら受け取らないという状態を続けていたら、ラマナ・マハルシは探求者との対話に専念することはできなかったかもしれません。
「ラマナ・マハルシとの対話」という本は誕生しなかったかもしれません。
結果的に、僕は真理を悟ることはできなかったかもしれません。
僕にとって、ラマナアシュラムが寄付を受け取ってくれるようになったことは良かったのかもしれません。
ラマナ・マハルシが、それを許可してくれたことは多くの人にとって良かったのかもしれません。
こんな感じで参考になるでしょうか?
また何かありましたらご連絡ください。
それではまた。