僕はこのブログの中で「魂は存在しない」と良く言っています。
でも、人によっては、「なぜ、そんなことが言えるのか? そう言い切ることはできるのか?」と思うかもしれません。
もちろん、それを証明することはできません。
証明できないのであれば、「魂は存在しない」と言い切ることにはあまり意味はないでしょう。
ただ、なぜ、魂は存在しないと言えるのか、ある程度は言葉で説明しようとすることはできます。
魂というのは、反対にその存在を証明することも不可能です。
ただ、漠然と魂は存在していると感じている人も少なくはないんじゃないでしょうか?
今回は、なぜ、そういうふうに感じられるのかということも含めてお話したいと思います。
そもそも、魂とは何なのか?
魂という言葉は、かなり漠然とした言葉です。
「魂って何?」と聞かれたなら、あなたならどう答えるでしょうか?
真理の探求に慣れた人であれば、「輪廻する主体」とか答えるかもしれません。
でも、例えば、子どもにそんなことを言ったって伝わりづらいですよね。
子ども相手にであれば、「魂というのは、体が死んでも残る霊的な存在であって、魂はまた新しい体を手に入れるんだよ」と言うかもしれません。
はたまた、「魂というのは、墓場にただよっている火の玉のことだよ」と言う人もいるかもしれません。
共通して言えるのは、「これが魂だよ」と言って、魂を指差すことができる人はいないということです。
魂についての説明のときには、誰しもが漠然とした概念的な話になりがちです。
量子力学者だって、魂という存在を観測したことはないはずです。
にも関わらず、「魂の声が聞こえる」「魂がやりたいことはこれなんだ」と言う人も少なくはありません。
魂とは、感情に永続性を与えたもの?
例えば、ワクワクするようなことがある時、人は、「魂がやりたいことはこれなんだ」と感じるかもしれません。
それはまるで魂の反応であるかのように感じられるかもしれません。
前前前世からこれを探し求めていたんだと感じるかもしれません。
そこに、永続した感覚を感じるかもしれません。
でも、それは錯覚なんです。
感情の感覚と、永続した感覚は、別のものです。
だって、感情というのは明らかに一時的なものですよね。
ワクワクした感覚が永続することはないと思います。
にも関わらず、「魂がやりたいことはこれなんだ」と人が感じる時、まるで、そのワクワクした感覚が魂であるかのように錯覚します。
であるなら、魂というのは一時的な存在なんじゃないでしょうか?
感情は変化していきます。
ワクワクするどころではなく、自分のやりたいことが分からなくなってしまうことだってあると思います。
魂を見失ってしまったかのように感じることもあると思います。
虚無感に苛まれるかもしれません。
でも、多くの人は、その虚無感のことを魂とは呼ばないのではないかと思います。
もし、魂が永続するものなのであれば、その虚無感だって魂なんじゃないでしょうか?
魂という永続する入れ物があって、その中が虚無感で満たされている状態です。
それは、魂ではないんでしょうか?
心地よい感情で満たされているのでなければ、それは魂とは呼べないんでしょうか?
魂という概念を語る時には、ここらへんに矛盾点がでてくることが多いと思います。
魂は永続するものであるにも関わらず、その中身は変化します。
そして、その中身は心地よいものでなければいけないんです。
虚無感のようなものは、「それは魂ではない」と否定されがちなんじゃないかと思います。
もし、そうなのであるなら、人は魂という永続する入れ物を求めているのではなく、ただ単純に、心地よい感情を求めているだけなんじゃないでしょうか?
(関連記事:虚無感に苛まれる原因はどこにあるのか?【思考と感情の分離】)
テレビのディスプレイは魂と言えるか?
人が、ワクワクする感情などに対して永続性を感じるのは、まさしく、人は永続する存在だからです。
「じゃあ、魂は存在するんじゃないか!」って思うかもしれません。
確かに、永続する存在はあります。
でも、それを「魂」と呼べるかは少し疑問です。
例えば、テレビのディスプレイのことを「魂」と呼ぶことはできるでしょうか?
多くの人は、「魂」=「感情」+「永続性」だと思っています。
でも、実際のところは感情そのものは一時的な存在であって、実体というものはありません。
なので、実際のところは「魂」=「永続性」なんです。
言ってみれば、空っぽの入れ物です。
ワクワク感も虚無感も、退屈感すらも無い状態にとどまることで、魂とは何かを理解することができます。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
それは永続するものです。
でも、それは一般的に言われているような「魂」ではないんです。
というのも、この入れ物は、あらゆるものを含んでいるからです。
世界をすら含んでいます。
魂という概念は、世界の中に魂が存在するからこそ成り立つんじゃないかと思います。
でも、実際のところは、この永続性という入れ物は、世界をも超えているんです。
なので、この永続性が時空を超えて世界を輪廻するということはあり得ないんです(証明はできません)。
むしろ、そうなのではなく、この永続性の中で、様々な世界が輪廻しているんです。
同じテレビのディスプレイの中で、様々なテレビ番組が放映されるようなものです。
であるなら、このテレビのディスプレイを「魂」と呼ぶことはできるでしょうか?
おそらく、むしろ違和感を感じるのではないかと思います。
それは、単純に「存在」と呼ばれたり、「真我」と呼ばれるほうがシックリくるのではないかと思います。
(関連記事:輪廻転生を終わらせる必要なんてあるのか?)