「時間とは何か?」
改めて聞かれると返答に困りますよね。
漠然と、過去、現在、未来へと流れていく存在だと認識している人も少なくないと思います。
時間は4次元と言われることもあるように、3次元の立体的なこの世界を超えた存在なわけです。
人類は時間に触れることはできていません。
立体的なモノに触れることはできても、時間に触れることはできていないわけです。
ストップウォッチで時間を計ってみたとしても、それは時間に触れていることにはならないですよね。
タイムマシンで現在から過去や未来に移動することができた時、初めて人類は時間に触れることができたと言えるのかもしれません。
でも、そんなことは可能なんでしょうか?
タイムパラドックスという言葉があるように、時間に関わる仮説は逆説に満ち満ちています。
例えば、タイムマシンで宇宙が始まる前に戻ったとしたらどうなってしまうんでしょうか?
空間が無いところにタイムマシンは現れることができるんでしょうか?
時間とは一体何なんでしょうか?
映画の中に時間は存在しているのか?
時間というのは絶対的なものだと思うかもしれませんが、時間は相対的なものでもあります。
例えば、映画の中の時間は相対的なものですよね。
2時間の映画の中で、100年の時間が流れたりすることもあるわけです。
そして、人はその相対的な時間の流れを理解します。
「10年後…」とかいう字幕が入ったのなら、そこに10年の時間の流れを感じることができるわけです。
また、ドラゴンボールには「精神と時の部屋」という部屋が登場します(知らない方すみません)。
その部屋は外部と時間の流れが違っていて、その部屋の中で1年を過ごしたとしても、外部では1日しか経ちません。
その差を利用して修行したりするわけです。
現実的に考えるとそんなことはあり得ないと感じたりするのですが、それがマンガの中の設定だったりすると、人はすんなりとその相対的な時間の差を受け入れることができます。
それはなぜなのかといえば、映画やマンガの中の時間というのは仮想的なものだと思っているからなんじゃないでしょうか?
「この時間」と「映画の中の時間」は何が違うのか?
人は「この時間」と「映画の中の時間」を区別しています。
「映画の中の時間」は仮想的でも、「この時間」は絶対的に存在していると感じている人は多いと思います。
ビッグバンによって宇宙が始まる前から「この時間」は継続しているし、宇宙が収束することによって終焉したとしても「この時間」は継続すると感じる人も少なくないと思います。
宇宙が有ろうが無かろうが、空間が有ろうが無かろうが、時間は4次元的存在として3次元を超えて常に存在しているように感じるかもしれません。
僕自身が以前はそのように考えていました。
どう考えても「この時間」の枠の外に出ることはできないわけです。
それゆえに、時間こそが大いなる存在だと考える人もいるかもしれません。
でも、なぜ人は、「この時間」にそこまでの存在感を感じているんでしょうか?
人は、「この時間」と「映画の中の時間」を区別していますが、その違いは何なんでしょうか?
映画は作られたものだからとか、映画には始まりと終わりがあるからとか、色々理由はあるかもしれません。
でも、おそらく、最も大きな違いは、人は「この時間」に物質的なリアリティを感じているところにあるのではないかと思います。
人は「この時間」に物質的な存在感を感じている
人は、過去の記憶を見て「これは本当にあった出来事だ」と認識します。
なぜなら、その記憶には5感覚や感情といった感覚も紐付いているからです。
例えば、野球をした記憶があるのであれば、その記憶の中には、バッドがボールに当たったときの反動する感覚や、グローブでボールをキャッチする感覚、走る感覚、ザッザッという靴で地面を蹴る音、心拍数が上がる感覚、高揚する感覚、といったものが含まれているわけです。
それゆえに、人はその記憶に物質的なリアリティを感じます。
客観的に見れば、記憶というのは、現在、ここに現れているイメージに過ぎません。
でも、人はその記憶にイメージ以上の存在感を感じています。
現実に相当するものだと認識しているのではないかと思います。
そのリアリティゆえに、人は、現在と過去を連続したものとして認識するんです。
その認識こそが、人が「時間」として感じているものです。
現在の中に時間があるわけではなく、過去の中に時間があるわけではなく、未来の中に時間があるわけでもありません。
あくまでも「時間」というのは、現在ここにあるイメージに対する認識でしかないんです。
例えば、宇宙が始まる前をイメージして、そこに時間が存在していると感じるかもしれません。
その時間が現在にまで継続して流れているように感じるかもしれません。
でも、実際のところは、現在の中に、宇宙が始まる前のイメージが起こっているのであり、そのイメージに対して「時間」という認識が起こっているだけです。
なので、時間という実体はどこにも無いんです。
映画に対して時間という感覚を感じることができるのも、時間というのは実体を持っているわけではなくて、単なる認識でしかないからです。
現在、目の前で上映されている映画に対して、時間という認識が作用するんですね。
映画は主に視覚と聴覚によって体験されるものであり、5感覚をフルに使って体験されるこの現実に比べるとリアリティに劣ります。
なので、「映画の中の時間」は、「この時間」と連続しているようには感じられません。
あくまでも、連続しているように感じるのは、映画館のイスに座って、閉じられた空間の中で、スクリーンの中の映画を観たという体験の方です。
多くの人が思う「この時間」というのは、5感覚的であって物質的に感じられるものなんです。
物質が存在しないなら、時間も存在しない
時間というのは単なる認識です。
ただ、それはとても複雑に組み合わさって成り立っているため、その正体に気づくことは困難です。
その根源となるのが「物質が存在している」という認識です。
前回の記事で、物質は存在していないというお話をしました。
(関連記事:目の前の物質が存在しないことをどう理解するか?【世界は存在しない】)
それは、視覚の対象と触覚が関連づけられることによって、相対的に物質であるかのように感じられるものだとお話しました(信じがたいのですが)。
実は、時間も同じなんです。
時間はその発展形とも言えるかもしれません。
物質的な感覚をともなった記憶の集合体。
それが「この時間」を成り立たせています。
なので、人が「この時間」に物質的な存在感を感じるというのは当然なのかもしれません。
人は、頭の中で仮想的に「この時間」を拡張していくこともできます。
宇宙が始まる前をイメージして、そこに時間が存在すると感じるのは、イメージに対して物質的な時間という認識を貼り付けることができるからです。
なので、「この時間」には始まりも終わりもないように感じられます。
頭の中で仮想的に「この時間」を無限の存在として認識することができてしまうからです。
でも、あくまでもそれは、現在、ここに現れている認識でしかないんです。
「この時間」も「映画の中の時間」と同じように相対的なものでしかありません。
(関連記事:記憶があるから、時間が存在する)