仏教には
「十二縁起(じゅうにえんぎ)」もしくは
「十二因縁(じゅうにいんねん)」という言葉があります。
12の要素によって、
人は苦しんだり、
輪廻転生を繰り返すと言われています。
その12の要素の意味についてお話しします。
12の要素とは?
十二縁起はその名の通り、12の要素で成りたっています。
「無明(むみょう)」
「行(ぎょう)」
「識(しき)」
「名色(みょうしき)」
「六処(ろくしょ)」
「触(そく)」
「受(じゅ)」
「愛(あい)」
「取(しゅ)」
「有(う)」
「生(しょう)」
「老死(ろうし)」
の12の要素です。
無明とは、自分が存在するという思い込み?
1番めの要素、
「無明」というのは、
自分が存在するという思い込みのことです。
もしくは、自分という実体があると思い込んでいることです。
なかなか、理解しがたいのではないでしょうか。
自分という存在が、本当は実在しないだなんて。
誰だって、自分がいるということを疑う人はいないと思います。
でも、ブッダはこう言っています。
諸法無我と。
この世界、この世界を構成するもの、
そういったものの中に、
確かな実体を持った、
我というものは存在しないというんです。
そのことを理解することが、
智慧と呼ばれています。
智慧を理解していない状態が無明です。
ちなみに、
無明とは煩悩のことだとも言われたりしますが、
煩悩が存在できるのも、
受け皿となる自分という存在があるからです。
もし、自分が存在しないのだとすれば、
誰にとっての煩悩なんでしょうか?
行とは、この世界を構成しているエネルギーのようなもの?
2番めの要素は、
「行」です。
行というのは、
この世界を構成しているエネルギーのようなものだと思います。
僕たちが、
赤ちゃんから大人にまで成長できるのも、
この行のエネルギーによるものだと思います。
もちろん、植物が成長するのも、
行のエネルギーによるものだと思います。
そして、
無明による自分が存在するという思い込みが、
エネルギーを持ったものに変わるのも、
この行によるものだと思います。
言ってみれば、
自分が存在するという思い込みの種が、
行というエネルギーによって、
発芽するような感じでしょうか。
そうすると、
「自分」という意識が発生します。
それが、3番目の要素である「識」になります。
識によって、僕たちは心と体をもって世界に誕生する。
僕たちは、
意識があるからこそ、
心を認識することができます、
そして体を認識することができます。
つまりは、心と体は、
意識があるからこそ存在することができます。
多くの人は、
体があるから、
心が発生して、
さらに、意識も発生すると思うかもしれませんが、
十二縁起では考え方が逆なんですね。
意識、心、体の順番です。
だからこそ3番めの要素が「識」で、
4番目の要素が「名色」なんですね。
ちなみに、
名は心のことを表し、
色は体のことを表します。
つまりは、
十二縁起の4番めの「名色」で、
僕たちは心と体をもって、
この世界に誕生するんですね。
そして、
5番めの要素である「六処」が発生します。
六処というのは体がもっている5感覚、
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚のことです。
それに加えて、
モノゴトを判別する意識が発達してきます。
5感覚と意識をまとめたものが六処と呼ばれています。
ちなみに、ここでいう意識というのは、
3番目の要素である「識」とは違って、
心という意味です。
心と体は、
外の世界と接触します。
それが6番目の要素である「触」です。
僕たちは、世界に触れると、
そこから何かしらの情報を受け取りますよね。
例えば、
火で加熱したお鍋に手が触れると、
熱いと感じますよね。
熱いという情報を受取るわけです。
これが、7番目の要素である「受」です。
そして、渇愛と執着が生まれる。
熱いお鍋に触れると、
手にものすごい熱さを感じます。
これを心地よいと感じる人はいないでしょう。
だって、火傷しちゃいますもんね。
でも、チョコレートの甘さはどうでしょうか。
チョコレートを食べると、
味覚によってチョコレートの甘さを受け取ります。
そして、「美味しい!」って感じるわけです。
そうすると、もっと食べたくなりますよね。
これが、8番目の要素である「愛」です。
対象を愛する心ですね。
これは、人にももちろん当てはまります。
赤ちゃんは、ずっとお母さんに見守られながら育ちます。
そこには、とうぜん「愛」が発生しますよね。
「ママ、見てみて!」って言うわけです。
でも、お母さんだって、
自分の人生があるので、
ずっと子どもにかまってはいられないかもしれません。
そうして、お母さんにかまってもらえなくなると、
そこには渇愛が生まれます。
愛に渇いた心です。
子どもは、段々と成長して大人になります。
年頃になると異性を好きになったりしますよね。
愛を求めているんですね。
そして、めでたくお付き合いできることになったとします。
そうすると、今度は、
別れることになるのが怖くなるのではないでしょうか?
この世は諸行無常です。
出会いもあれば、別れもあります。
もし、別れることが怖いなら、
そこには執着があるのではないでしょうか。
これは、もちろん人だけに当てはまるものではありません。
モノにだってそうだし、
社会的な地位にだって執着することもあると思います。
この執着が、9番目の要素である「取」です。
自分の元に取っておきたいんですね。
誰にとっての渇愛と執着なのか?
十二縁起のもっとも難解な部分。
それは10番目の要素である「有」だと思います。
ウィキペディアによると、
有というのは生存や存在という意味のようです。
でも、なんで渇愛したり、
執着する心が、
存在・生存につながっていくんでしょうか?
実は、ここで考えるべきなのは、
渇愛や執着は、
誰にとって生まれるのかという点なんです。
自分が渇愛しているんです。
自分が執着しているんです。
自分という存在をベースに、
その上に、渇愛や執着というものが成立しているんですね。
もし、自分が存在していなければ、
誰が何に対して執着するんでしょうか?
逆説的に言えば、
何かに執着するということは、
そのベースには自分という存在があるんです。
執着するものが多ければ多いほど、
自分は存在するという思いは強くなるのではないでしょうか。
実は、このことを「有」と言っているのではないかと思います。
自分が存在する(有る)という思い込みです。
つまりは、無明の原因というのは、
ここなんです。
有があることが無明なんですね。
自分が存在するゆえに、また生まれて、また老死する。
11番目の要素は「生」です。
心と体が生まれるのは4番目の要素である「名色」の時です。
なぜ、同じような意味の言葉がでてきているんでしょうか?
実は、11番目の要素の「生」というのは、
未来の誕生のことを意味しているんです。
来世ってことですね。
今、生きていて、
日々の生活の中でいろんな執着を持ちながら暮らしているとします。
そのベースには、
自分は存在するという思い込みがあります。
つまりは「有」です。
その「有」が来世の誕生の種になるってことですね。
つまりは、来世は今、作られているということです。
そして、人は生まれたら、
老いて死んでいかなければいけません。
だから、最後の12番目の要素には「老死」がきています。
今だって、来世だって、
老死することはまぬがれません。
まとめ
というわけで、
十二縁起の意味についてお話しました。
十二縁起については、
いろんな解釈があると思います。
特に、「無明」と「有」については、
抽象的な説明になりがちなので、
なかなか納得することが難しいかと思います。
でも、僕は思います。
無明も有も、
自分が存在するという思い込みに関わっているのではないかと。
煩悩という言葉もありますが、
煩悩が存在できるのも、
自分というベースがあってのことです。
もっとも根本的な最大の煩悩が、
自分が存在するという思い込みなんだと思います。
ブッダは、そのことをみんなに伝えたかったのではないでしょうか。
諸法無我という言葉を使って。
でも、自分が存在しないだなんて、
頭ではなかなか理解し難いのではないでしょうか。
というか、受け入れたくない事実なんじゃないでしょうか。
なので、ブッダは八正道によって、
瞑想修行の道を推奨したんですね。
「頭で考えても理解できないから、ともあれ、瞑想してみてよ!」
という感じなのではないかと。
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