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「一なるもの」と一体である私の「気づき」は何故全体を見渡せないのか?【Q&A】

今回は、KTさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

KTさん、ありがとうございます。

KTさんからの質問

個について

「一なるもの」「気づき」「今ここ」それが全てで有り、思考が拵えた自己の概念、「自我」と呼ばれるようモノが生み出す諸々の事象は幻想で実体が無く、単純にこの二元的な世界で生きてゆくための、ある種の道具ような役目をしているに過ぎないという事は腑に落ちます。

存在論的、現象学的、認識論的(そんなモノが有るのか?と言う疑問を感じても、なおも言葉が見つからないので使用します)として、つまりは哲学として、僕にとっては一点の疑いも持ち得ない究極の存在の実相だと思っています。こう言った言い回しも問題があるのも感じています。

僕が非二元を学習?し始めたのは、苦しみからです。苦しみの前に「やはり」と書いて消しました。でも「やはり」なんです。結局は単純に「苦しみ」から逃れたいが為に「非二元」を齧ったのです。

「すべての現れをあるがままにさせておくとは、どのような思考や感情、感覚、状態、体験に対しても、分析しよう、無力化しよう、ねじ伏せよう、取り除こうなどのいかなる働きかけもせずに、自由に訪れたり去ったりさせておくことです。」

という事をいつも念頭に置いて「思考」を観察するようになると、未だ完全にいう訳には行きませんが、湧き出た思考に対して思考するという事は殆ど無くなりました。随分と楽な気持を維持できるようになったと思います。つまり「幻想だ!」の一言で片付けてしまう訳です。

僕にとって「非二元」とは一向に消え失せる気配を見せない「自我」を騙す方便でしかないようです。

と言うのも「非二元」の核となる「一なるもの」の構造が分からないからです。大海と波、スクリーン自体と映し出される映像、というような例えのような事も理解できるし、その通りだと思うのですが、「一なるもの」の完全な一部分である私の「気づき」は何故その「一なるもの」の全体を見渡す事が出来ず常に「個」なのでしょうか? 肉体の中に閉じ込められた独立した存在という事が幻想であるならば、なぜ「一なるもの」と一体である「気づき」は何故視点が変更できないのでしょうか。「非二元」について書かれた書物は結構よみましたが、この事に関して言及記述したものを知りません。有体に言えば、つまり僕の「気づき」は僕の女房や息子に何故移動できないのでしょうか。「大いなる存在」は何故そうのように創造したのでしょうか。それともこの「一なるもの」の「気づき」は、たった一つだけでのものであり、「個」と感じる部分も幻想なのでしょうか。僕の言っている「個」とは「視点」の事です。

どうお思いになるか、お聞かせいただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

回答

KTさん
こんにちは。

KTさんが感じているジレンマは僕も経験していたので良く分かります。
「すべてが意識なのであれば、なぜ、この意識はこの体からの視点に限定されているのか?」とかですね。

読んでいただいたかは分かりませんが、僕は非二元という言葉に対して批判的な記事を書いています。

(関連記事:非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】

世間一般的に言われている非二元の言葉を信じるなら、こういったジレンマに陥って当然なんです。
それは机上の空論みたいなものだからです。

> 「一なるもの」の完全な一部分である私の「気づき」は何故その「一なるもの」の全体を見渡す事が出来ず常に「個」なのでしょうか?

例えば、KTさんはなぜこう思うんでしょうか?
どうやって私の「気づき」というのは「一なるもの」の完全な一部分だと認識しているんでしょうか?

この認識の裏には、KTさんが非二元の言葉を信じていて、さらに、自分の記憶を信じているという前提があります。
実際のところ、覚者が幻想だというのは、その前提の方です。

それは単なる記憶でしかなく、イメージでしかないのに、なぜ、そのイメージ通りにならないということにジレンマを感じるんでしょうか?

実際のところは天と地がひっくり返るほどに違います。

KTさんは、私の「気づき」は「個」であると認識しているかもしれません。
でも、実のところはその「気づき」が「一なるもの」なのであって、それを「個」だと勘違いしているのはKTさんなんです。

「いやいや、この気づきは「個」なのであって、宇宙全体を認識することはできない!」と思うかもしれません。

でも、宇宙全体とは何なんでしょうか?
それは、この私の「気づき」の中でイメージすることができる部分的存在でしかありません。

「宇宙全体」ということをイメージすることはできますが、それは私の「気づき」の一部分ですよね?
テレビなどで宇宙の映像を見ることがあるかもしれませんが、テレビの映像は、この私の「気づき」の中に現れる一部分です。

なので、認識が真逆なんです。
「宇宙全体(一なるもの)」というのは本質的には単なるイメージであって、この意識の中の一部分なのであって、それを内包する全体が私の「気づき」なんです。

どこに問題があるのかといえば、「自分がイメージしたものは、現実であるはず」という思い込みです。

例えば、今、僕の目の前にiPhoneがありますが、そのiPhoneと、僕が今頭の中でイメージするiPhoneは別ものなわけです。
どれだけそっくりにイメージしたとしても、頭の中のイメージのiPhoneを手にとって、目の前のiPhoneに電話をかけることはできません。
それは単なるイメージにすぎないからです。

iPhoneはスティーブ・ジョブスがまずはイメージしたからこそ、現実の製品として現れたと思うかもしれません。
でも、目の前のiPhoneと、スティーブ・ジョブスがイメージしたiPhoneというのは本質的には別のものなんです。
イメージはイメージでしかありません。

それでも人は、「イメージが現実になった」と言ったりします。
実際のところは、そう思うことにはかなりの飛躍があるんです。
でも、多くの人は、そこに飛躍があるということに自覚がありません。

そういった自覚がないがゆえに、「一なるもの」というイメージをしたときに、それが現実であるかのように錯覚したりします。

> 「非二元」について書かれた書物は結構よみましたが、この事に関して言及記述したものを知りません。

それは非二元を語る人も錯覚にとらわれているからです。
錯覚にとらわれているうちは、イメージすることができるだけで、物事の関係性や構造といったものを理解できないと思います。

> 有体に言えば、つまり僕の「気づき」は僕の女房や息子に何故移動できないのでしょうか。

これはKTさんが非二元の言葉を聞いて、「そうであるなら、個の視点が移動することもあるのではないか?」とイメージしているだけです。
自分のイメージを正解だとみなした上で、なぜ、現実はそうならないのかとジレンマを感じているんです。

反対に言えば、なぜ、そうである必要があるんでしょうか?

疑うべきは逆の方です。
なぜ、KTさんは非二元の言葉を信じて、その言葉を前提に頭の中に真理の概念を作り上げて、そのことにリアリティを感じているんでしょうか?
その仕組みに気づくのが真理の探求です。

おそらくは、そのことはKTさんにとっての死角になっているはずです。
多くの覚者はその死角に気づかせようとするものなのですが、非二元を語る人は自身がその死角に気がついていません。

> 僕にとって「非二元」とは一向に消え失せる気配を見せない「自我」を騙す方便でしかないようです。

なので、これはその通りだと思います。
非二元の言葉は「自我」を騙す方便でしかないんです。

非二元に対する僕の懸念点は、苦しみすら幻想だと思わせがちなところです。
苦しみは幻想でしょうか?

苦しみというのは、5感覚を通じて感じられるこの世界よりもよっぽど現実的でリアリティがあります。
だからこそ、それを避けたいと思いますよね。

でも、苦しみを「幻想だ!」と見ないようにすることと、実際に苦しみが消えるところを目撃することは全然違います。
実際に苦しみが消えるところを目撃しないことには、苦しみの正体は分からないと思います。

苦しみが消える時には、なぜ、自分が苦しめられていたのかが客観的に分かることが多いです。
それこそ、幻想に苦しめられていたということが分かります。

> それともこの「一なるもの」の「気づき」は、たった一つだけでのものであり、「個」と感じる部分も幻想なのでしょうか。

「一なるもの」の「気づき」というイメージも、それは幻想なのであり、KTさんにジレンマを感じさせている原因なのではないかと思います。
このジレンマが消える時には、「一なるもの」の「気づき」というイメージの方が消えてしまうはずです。

実際のところは、「個」と感じている部分が全体なのであり、「一なるもの」だということに気がつくかもしれません。

「個」とは何なのかといえば、この体のことではなく、この体の「気づき」でもなく、この体を個人だと認識している思い込みの方です。
それゆえに、個人は存在しないと言われたりもすると思います。

例えば、生まれたばかりの赤ちゃんは自分を個人だとは認識しないと思います。
人は、いつ自分を個人だと認識するんでしょうか?
そして、なぜ、個人だという認識が生まれるんでしょうか?

真理の探求というのは、そのことを確認していくことだったりもします。

そして、KTさんは「気づき」と言いますが、「気づき」と「5感覚」は違うものでしょうか?
大抵の場合、「気づき」と「5感覚」は同じようなものとして語られることが多いと思います。

視覚の範囲が気づきであるかのように語られることが多いと思いますし、僕もそういう前提で使うことが多いです。

でも、実際のところは「気づき」と「5感覚」は違うものです。

多くの人が「気づき」だと思っているものから、5感覚や思考やイメージや感情を取り除いたものが「気づき」です。
思考やイメージや感情を取り除くということはイメージしやすいと思いますが、5感覚を取り除くということはイメージし難いと思います。
それは「無」であるように感じられるからです。

でも、それが究極の存在の実相です。
「無」であるかのように感じられるのですが、実際のところはそれは「有」であって気づきの根源です。
それは苦しみを感じる場所で感じられます。

思考する必要もなく、イメージする必要もなく、5感覚に反応する必要もなく、ただ、気づきに気づいていればいいだけなんです。

気づきと5感覚についてはこちらの記事が参考になると思います。

(関連記事:脳が意識を作り出しているのか?【意識は感情の中にある】

作成者: 山家直生

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