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男女関係と探求について【Q&A】

今回は、IKさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

IKさん、ありがとうございます。

IKさんからの質問

男女の問題は探求においてどのような位置づけなのでしょうか。

私は30代ですが、いままで恋愛経験が一度もなくそのことに強いコンプレックスを感じています。

女性に相手にされないことに対する惨めさ、孤独感、フラーストレーション、ネガティブ思考などにいつも苦しめらているような気がします。

探求とは男女関係を十分に経験し、そこにもう何も未練がないという人にとって始まるものなのでしょうか?

(関連記事:執着は手放すものではなく飽きるもの?

回答

IKさん
こんにちは。

ご質問ありがとうございます。

男女の問題も、他の問題と変わりはないと思います。
結局のところは飽きてしまいます(そんなことを言うと妻が怒りそうですが)。

無理に男女関係を経験する必要はないと思います。

IKさんは、そのことに対してエネルギーが湧き上がっている状態でしょうか?
もしそうであれば、十分に男女関係を経験してみるのもいいとは思いますが(それこそ飽きるまで)、そうではないようにも感じられます。

もしかすると、根源的な満たされなさ、孤独感の原因を、男女関係に投影してしまっているだけかもしれません。

人は、自分自身の満たされない感覚の原因を、外側の何かに無意識に結びつけようとしてしまいます。
それこそ、男女関係だったり、人間関係だったり、お金だったり、容姿だったり、能力だったり、生まれた環境だったり、色々です。

でも、それらを解決しようとするがあまり、さらに満たされない感覚を強めてしまっている人も少なくないと思います。
そもそも、方向性が間違っているんです。

何が間違っているのかといえば、満たされない原因を、外側の何かと結びつけようとするその人が問題を作り出している張本人なんです。

IKさんは、その張本人でしょうか?
それとも、その張本人を観察することができる人でしょうか?

そのことに自覚的でなければ、人は驚くほどに次々と執着する対象を変え続けていきます。

例えば、IKさんに彼女ができて幸せな結婚をしたとします。
でも、幸せな結婚生活を維持するにはたくさんお金を稼がなければならないとなると、今度はお金に執着し始めたりもします。
老後にはきっと健康にも執着するはずです。
最終的には生に執着します。

それが人の持つ無意識の性質です。
次から次へと問題を作るべく飛び移っていきます。

IKさんは、惨めさ、孤独感、フラストレーション、ネガティブ思考などに苦しめられている最中かもしれません。
でも、それは探求においては好都合と言うこともできるんです。
物事が上手くいっていたら探求しようとは思いませんよね。

どの段階で人が探求の道に入るかはかなり個人差があると思います。
何かを達成してから探求が始まるというような前提条件みたいなものはありません。
苦しみと向き合うならそれが探求の始まりだと思います。

ちなみに、苦しみ続けるというのは結構至難の業だったりします。
人は起きている間ずっと苦しんでいるわけじゃないですよね。
苦しみを忘れていたり、むしろ、楽しんだり笑ったりしている時もあるわけです。

でも、突発的に苦しみがやってくるから、「自分は苦しんでいる」と思ってしまいます。

IKさんも、なんらかの出来事が原因となって苦しみがやってくるかもしれません。
そうしたら、その苦しみがどれくらい持続するのかを観察してみるといいと思います。

苦しみが起こってから消えるまでを見届けることは実は結構難しかったりします。
それを観察しようとすること自体が探求ですし、瞑想にもなると思います。

IKさんからの返信

どうもyamaieさん返信有り難うございます。
こういったテーマについてやり取りできることを非常に嬉しく思います。
10代、20代のころはテレビゲーム、音楽、読書などの趣味に没頭することで自分を忘れることができたのですが、30代になるとそういった趣味に対する興味が完全になくなってしまい、一人でいる空白の時間が耐え難くなりました。
そういうわけで男女関係というテーマに真剣に取り組むべきなのかなとも考えていました。正直なところエネルギーが湧き上がっているからなのか、あるいは苦痛からの逃避でそういうことを考えるのかは自分でもよくわかりません。
スピリチュアリティは苦しみそのものを見ろといいいますが、私はこの言葉の意味が理解できません。苦しみそのものを見ろと言われれば、思わず「どうやってそれをやるのですか?」と尋ねてしまいます。ただ「どうやって?」は間違いなく苦しみを正面から見ることを拒絶した態度ですよね。
この苦しみを見るという行為は、私の個人的な意思で起こることではないような気がしています。私の個人的な意思、努力ということと全く無関係に、全く想像もしない形で起こるのがこの見るということなのかなと感じています。
私の人生の有る時点でそういうことが自然に起こるのかもしれませんし、生涯起こらないのかもしれません。
私にとって問題は苦しみの中でもがき続けることをいつまでやらなければならないのかが全くわからず、これが死ぬまでの間ずっと続くかもしれないという恐怖が有ることです。
もし私が今この瞬間に見るという態度を取れない場合、苦しみに飽きるまでもがき続けなければならないということは、体を持って生まれたものの宿命でしょうか?

回答

IKさん
こんにちは。

> スピリチュアリティは苦しみそのものを見ろといいいますが、私はこの言葉の意味が理解できません。
> 苦しみそのものを見ろと言われれば、思わず「どうやってそれをやるのですか?」と尋ねてしまいます。

苦しみを見るというのは簡単です。
IKさんはすでに苦しみを見ているんです。
でなければ、苦しみを認識することもできません。

それはどういうことなのかといえば、IKさんにとっては苦しみを見るということは未知の何かなのかもしれません。
今はできていない何かが将来的に起こるのかもしれないと想像しているかもしれません。

でも、そうではなく、苦しみを認識していることそのものが苦しみを見れている証拠なんです。
ただ、それはIKさんが思っているような「苦しみを見る」ではないので「どうやって?」という反応になるのかもしれません。

思考を使って何かをする必要はないんです。
思考の働きは思考することなのであって、それ以上でもそれ以下でもないんです。

苦しみを見るという働きは意識にあるのであって、思考にあるわけじゃないんです。
意識なしには思考を見るということだってできません。

熟睡中は思考に気づけませんよね。
同じく、苦しみに気づくこともありません。

なので、どうやって苦しみを見るのかと問われるのなら、「黙ることによって」と答えることになります。
すでに意識によって苦しみを見るということは行われているのであり、そこに思考が渦巻いてしまうと、思考の方に意識が向いてしまうんです。

なので、探求においては黙る意志が結構問われます。

もちろん、「なぜ、黙らなければならないのか?」とか「その理由は?」ということになります。
でも、それは知的には理解できないんです。

知的に理解すれば苦しみが消えるというわけでもないですし、知的に理解すれば退屈が至福に変わるというわけでもないんです。

僕はどちらかというと言葉を使って理屈っぽく語るほうですが、言葉だけではどうにもならないということも理解しています。
苦しみ、感情、退屈、意識、思考、意志などの関係性を、黙ることによって実際に観察していく必要があるんです。

> 私にとって問題は苦しみの中でもがき続けることをいつまでやらなければならないのかが全くわからず、
> これが死ぬまでの間ずっと続くかもしれないという恐怖が有ることです。

思考を使って苦しみに対処しようとするとそうなるかもしれません。
思考は切り口を変え、形を変え、新たな苦しみを作り出していきがちです。
苦しみが起こる仕組みを実際に自分で観察できない限り、無自覚に苦しみを作り出したり、継続させてしまったりということは続くのではないかと思います。

> もし私が今この瞬間に見るという態度を取れない場合、
> 苦しみに飽きるまでもがき続けなければならないということは、体を持って生まれたものの宿命でしょうか?

今この瞬間に見るということの連続が、苦しみに飽きるまでもがき続けるということです。
「今この瞬間に見る」という特別なことが起こって、もがき続けるということがチャラになるということはないんです。

ただ、それはIKさんがゲーム、音楽、読書などへの興味を失ってしまったように終わりがあります。

ゲーム、音楽、読書などへの興味が失われるまでには、結構な時間がかかったと思います。
苦しみだって、突然、失われるということはないんです。

世の中を見渡してみれば、苦しみに飽きることなく死んでいく人がほとんどなのではないかと思います。
苦しみを避けて、楽しさを追い求め、死を目前にして積み上がった苦しみの束に恐怖してしまいます。

僕はそんなことは絶対に嫌でしたし、それが探求の原動力にもなりました。

IKさんも探求に興味を持ったということは、苦しみの正体を知る可能性があるのではないかと思います。

もちろん、苦しみを見たってそれがいつ消えるのかなんて分からないんです。
でも、だからといって、他のことには興味を持てない人はそうせざるを得ないわけです。

問われるのは黙る意志かもしれません。

意識と意志(思考)の違いについてはこちらの記事が参考になると思います。

(参考記事:「意志」と「意識」の違いとは?

IKさんからの返信

ありがとうございます。

私はゲームや音楽に飽きるのに20年近い歳月がかかりました。飽きることに私の個人的な意思は一切関与していませんでした。私は飽きることを目的にこれらのことをやっていませんでした。
黙ることが起こることは、黙っていないことに飽きることと同じであると言えますか?現在の私は思考が渦巻いている状態に進んで飛び込んでいるようです。この状態に飽きることが、黙ることでしょうか?
飽きることは決して個人的な意思で起きるものではないですよね。もしかしたら10年、20年たったあとに思考でうるさくしていることに飽きるのかもしれません。あるいはまだそれに熱中しているかもしれません。
現時点で私が知的な範囲で理解できるのは、これが限界という気がします。

回答

IKさん
こんにちは。

> 黙ることが起こることは、黙っていないことに飽きることと同じであると言えますか?
> 現在の私は思考が渦巻いている状態に進んで飛び込んでいるようです。
> この状態に飽きることが、黙ることでしょうか?

飽きるということは感情と関係しているのであって、思考はそれに付随しているだけです。
思考が思考することに飽きるということはありません。

世の中を見渡してみても、思考することに飽きたという人はいないと思います。

僕自身、思考に飽きるという感覚を感じることはありません。
飽きるという感覚は必ず感情で感じます。

人は放っておけば、ずっと思考し続ける生き物なんです(苦しみと退屈を避けるために)。
なので、思考することに飽きた状態をイメージしてみてもそれは起こらないと思います。
それが起こらないからこそ、瞑想修行というものがあるとも言えます。

あくまでも、焦点にするべきは苦しみの感情そのものなんです。

なので、IKさんはやはり苦しみを正面から見ることを拒絶しているのかもしれません。
それはそれでいいんです。

IKさんの言う通り、飽きるということは個人的な意志で起こせるわけでもありません。
苦しみを避けないでいても、それが消えるという保証なんてどこにもないんです。

もし、他に選択肢があると感じるのであれば、それを追求してみたっていいんです。
それこそ、男女関係を追求してみてもいいかもしれません。

探求を始めるのは、他に選択肢はないと感じるようになってからでも遅くはないんです。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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