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心理 真我探求

執着は手放すものではなく飽きるもの?

「執着を手放しなさい」と言われることがあります。

執着が苦しみの原因だと言われているからですね。

でも、多くの場合、そう簡単にはいかないのではないかと思います。

「よし、執着を手放そう!」と思ってみても、思考とは裏腹に、感情的には執着が続いてしまうことが多いのではないかと思います。

執着を手放すというのは、執着することを我慢することなんでしょうか?

確かに、それも1つの手ではあります。

ただ、そうするだけで十分な人は非常に限られているのではないかと思います。

そういった人は、すでに大した欲を持ち合わせていない人です。

息で吹けば消えるような執着しか持ち合わせていない人です。

でも、多くの人はキャンプファイヤーの火のような執着を持っていることが多いのではないかと思います。

息で吹いたってなんの効果もないでしょう。

そういった人は、執着することを我慢するよりも、執着を燃やして飽きてしまったほうが良いのかもしれません。

執着とは感情的エネルギーのこと

執着というのは本質的には感情的エネルギーのことです。

それ無しには執着するということはできないと思います。

例えば、興味も湧かないことに対して執着することはできないですよね。

そのことに対して感情的エネルギーが湧かないんです。

執着するという状態は実はとても不思議な状態です。

執着するという感情的エネルギーが湧き上がっているにも関わらず、不足感を感じている状態だからです。

エネルギー的にはプラスになっているはずなのに、感覚としてはマイナスなんです。

それが執着しているという状態です。

例えば、他人に評価されることに執着するなら、そのために行動するための感情的エネルギーが湧き上がります。

そして、他人に評価されるなら、自分が感じているマイナスが埋められると感じているんです。

でも、実際のところは、他人に評価されたって、マイナスが埋められるというわけではなく、執着という感情的エネルギーが一時的に消えるだけです。

プラスが一時的に消えた状態なのですが、その状態を人はマイナスが埋められたと感じます。

最初からマイナスなんて無いんです。

逆説的に言えば、執着するからこそマイナスが有るように感じられているだけなんです。

例えるなら、執着するということは、湧き上がる感情的エネルギーで地面に穴を掘っておいて、自分でその穴に落ちているようなものなんです。

だからこそ、「執着を手放しなさい」と言われたりします。

感情的エネルギーは手放そうと思って手放せるものでもない

感情的エネルギーは手放そうと思ってもそう簡単には手放すことができません。

満充電された乾電池を放電させようと思ってもすぐには空にはなりませんよね。

テレビのリモコンに乾電池をセットして空にしようと思うなら数年かかります。

それよりかはミニ四駆に乾電池をセットしてずっとサーキットを走り続けさせたほうが空になるのは早いと思います(ミニ四駆を知らない方すみません)。

感情的エネルギーも似たようなところがあって、例えばスポーツをしてみたり、山登りをしてみたり、サーフィンをしてみたり、絵を描いてみたり、ダンスをしてみたり、仕事をしてみたり、なにかしらの行動することで放電されやすくなる傾向があります。

執着することを我慢しようとするのは、テレビのリモコンに乾電池をセットしようとするようなものです。

電池残量があまりないのであればそれでいいかもしれません。

でも、満充電の乾電池を空にするのには結構な時間がかかります。

なので僕は、なにかをやりたいという方に対しては、飽きるまでそれをやってみるということを勧めることが多いです。

もちろん、それが良い結果になるとは限りません。

例えば、他人に評価されたいと思って仕事を頑張ってみたとしても、大して評価されないこともあると思います。

苦しみに苛まれるかもしれません。

でも、それでいいんです(そう言うと怒られそうですが)。

実のところ、苦しみ続けることにも感情的エネルギーが必要なんです。

感情的エネルギーが不足しているから苦しんでいるわけではなく、むしろ、そこに感情的エネルギーがあるからこそ人は苦しみます。

なので、同じことにずっと苦しみ続けられるという人は実は少ないんです。

大抵の場合には、どこかの時点でエネルギーが尽きてそのことに飽きてしまいます。

諦めるという言い方もできるかもしれません。

諦められるほどに感情的エネルギーが消費されてしまったということでもあります。

執着というのはこのようにして手放されることも少なくないと思います。

飽きてしまったことには執着できない

飽きてしまうことの良いところは、飽きてしまったものにはもう執着できないということがあります。

この感覚は多くの人が理解できるはずです。

誰しもが飽きるという経験はしていますよね。

飽きてしまったものに執着し続けることは難しいと思います。

難しいというレベルではないと思います。

あり得ないとすら思うかもしれません。

それくらい確実なんです。

一方、執着することを我慢するという場合には、その確実性は感じられないことも多いと思います。

我慢することで、その執着を忘れることはできるかもしれません。

でも、ふとした拍子にその執着がぶり返す可能性だってあるんです。

まるで過去のトラウマの記憶が蘇るかのようにです。

死を目前にしてそういった執着がぶり返したとしたらどうでしょうか?

あまり考えたくないのではないかと思います。

なので、僕は執着を我慢するということはあまりお勧めしません。

それは一時的な対処法になる可能性が高いです。

僕自身の経験から言って、執着を避けるということはできないと思っています。

おそらく、1つ残らず避けられないと思います。

自分自身が何に執着しているかを自覚できずとも、運命であれば、そのことを自覚せざるを得ない出来事が起こるかもしれません。

もしそれが起こったなら、その都度、飽きてしまうのがいいのではないかと思います。

もちろん、苦しむこともあると思います。

でも、その苦しみを避けないことです。

(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと

もし、それを避けてしまったなら、執着しては苦しむことの無限ループに陥ってしまうかもしれません。

人は、目の前の苦しみを避けるために、新たな何かを見つけようとしてしまいます。

そして、結局のところ、それも苦しみを生み出すことになるんです。

執着しては苦しむことの無限ループです。

どこかのタイミングで、このループを逆回転させないことには、苦しみは増え続けるばかりです。

そのための第1歩として、まずは目の前の苦しみ(執着)に飽きてしまうということは有効なのではないかと僕は思っています。

(関連記事:煩悩の意味をわかりやすく解説【欲望と違うのか?】

作成者: 山家直生

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