サンスクリット語には「ヴィヴェーカ」という言葉があります。
ラーマクリシュナの弟子である、ヴィヴェーカーナンダのヴィヴェーカですね。
「識別する力」という意味だそうです。
真理の探求では、ともすれば、すべてはひとつということを認識する力が重要視される傾向があります。
でも、実のところは識別する力の方が重要だったりします。
なので、「ヴィヴェーカ」という言葉もあるのでしょう。
でも、なぜ、すべてはひとつということを認識する力よりも、識別する力の方が重要なんでしょうか?
お話します。
識別することは、分離に繋がるのではないか?
人によってはもしかすると、「識別しようとすることは、むしろ分離に繋がるのではないか?」と思うかもしれません。
人は、自分と他人を違うものとして認識するからこそ、争いが起きると思うかもしれません。
すべての存在が、実はひとつなんだと認識した方が、世の中は平和になるのではと思うかもしれません。
確かに、頭で考えるとそうなります。
でも、人類の歴史を振り返ってみるとどうでしょうか?
戦争ばっかりしているんじゃないでしょうか?
バガヴァッド・ギーターだって戦争のお話です。
(関連記事:バガヴァッド・ギーターを、わかりやすく解説)
実のところ、「すべてはひとつ」と認識しようとすることには落とし穴があるんです。
言葉で「すべて」と言うことは簡単なのですが、すべてには実体がないんです。
例えば、僕が「すべて」という言葉を使うとします。
そのすべてが意味するところは、僕が知っていることのすべてです。
言ってみれば、それは僕の記憶でしかないんです。
それは、客観的に見れば限定的なものですよね。
そして、それはすべての人に言えるんです。
(関連記事:「すべてはひとつ」の「すべて」は何を指すのか?)
鏡の中の映像を、現実と区別することは分離になるか?
例えば、鏡を見ると、その中にも空間が広がっているかのように見えます。
でも、鏡はあくまでも鏡です。
鏡の中の映像を、現実と認識する人はほとんどいないのではないかと思います。
一方、動物は勘違いすることがあります。
以前、小さなイエグモが、鏡の中の自分の姿を敵だと認識して、前足を高く上げて威嚇しながらアタックしているところを見かけたことがあります。
結構ほほえましいものです。
人は、そういった勘違いはしないと思います。
でも、遊園地のミラーハウスの中ではどうでしょうか?
ミラーハウスというのは、壁がすべて鏡でできた迷路みたいなものですね。
ミラーハウスの中では、人はいとも簡単に、鏡の中の映像を現実と勘違いします。
鏡の中の映像を空間だと勘違いして、鏡にゴツンと衝突したりします。
「ここには確実に鏡が無いだろう」と思って手を伸ばしてみると、そこには鏡が有ったりします。
人は、いとも簡単に、現実と非現実を混同してしまうんです。
実のところ、イエグモを笑ってはいられないんです。
この世界は鏡の中の映像のようなもの
人が「すべて」という言葉を使うとき、そこには現実と非現実が入り混じっています。
でも、本人にはその自覚がないことがほとんどです。
すべてが現実だと思っています。
そのことを指して、無知とか無明という言葉が使われたりします。
実のところ、人が現実だと思っているほぼすべてが、非現実なんです。
なので、人は「すべて」を追い求めても満足することがありません。
満足しないから、戦争や争いも起こります。
人は、「すべて」という言葉を使う時、記憶を参照しますが、そもそも、記憶そのものが非現実です。
記憶は単なる記憶です。
でも、ほぼすべての人は、記憶を現実に準ずるものとして認識しています。
言ってみれば、記憶というのは、鏡の中の映像のようなものです。
(関連記事:記憶があるから、空間が存在する)
でも、多くの人はそうは感じていません。
記憶の中の世界を、あたかも現実であるかのように認識します。
理屈的には、確かにそれが記憶であったとしても、感情がそれを現実であるかのように感じているんです。
じゃあ、現実って一体何なんでしょうか?
そのために、ヴィヴェーカ(識別する力)が求められるんです。
沈黙を保つことで、ヴィヴェーカ(識別する力)は磨かれる
例えば、ミラーハウスの場合、視覚を使って判断しようとするから、現実と非現実を混同してしまいます。
目を閉じて、手の触覚だけで判断しようとするなら、鏡と空間を錯覚することもないかもしれません。
シャンカラのウパデーシャ・サーハスリーや、禅の十牛図では、視覚や聴覚などの5感覚が錯覚を引き起こす原因であることを指摘していたりします。
例えば、ウパデーシャ・サーハスリーではこうです。
「ちょうど『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』(6・14・1〜2)で目を覆われて、誰もいないところに残されたガンダーラの人が、道を尋ねながら森を超えてガンダーラ国に到達するように、人は憂いと混迷に汚された「これ」(=非アートマン)の森を超えて、自己のアートマンに到達する」(2・4)
(関連記事:ウパデーシャ・サーハスリーをわかりやすく解説【シャンカラ】)
禅の十牛図の第9図の詩ではこうです。
根源に還るために、あまりにも多くのステップが踏まれすぎた。はじめから、目も耳もきかなかったほうがよかったのに!自分の真の住み家にいて、外のことにはかかわりなし。川は穏やかに流れゆき、花は赤く色づいている。
(関連記事:禅の十牛図をわかりやすく解説【悟りに至る段階】)
多くの人は、5感覚を通じて感じられるこの世界が現実のように感じられるんじゃないかと思います。
でも、古典では、そうではないということが伝えられています。
もし、人に5感覚がなければ、感じられるのは、意識、感情、思考、イメージや記憶といったものだけです。
記憶は単なる記憶であって、非現実だと先ほど言いました。
じゃあ、現実は、意識でしょうか?
感情でしょうか?
思考でしょうか?
現実という言葉だとピンと来ないかもしれません。
存在の根源と言えるのは、どれでしょうか?
その答えを、ラマナ・マハルシはハートだと言っています。
「ハートって何だよ!そんなの感じられないよ」と思うかもしれません。
だからこそ、ヴィヴェーカ(識別する力)が重要なんです。
感情は常にここに在るものでしょうか?
思考は?
意識だって、常にここに在るものでしょうか?
退屈を避けたいという衝動はどこからやってくるでしょうか?
記憶を現実であるかのように錯覚している人は誰でしょうか?
沈黙を保つことで、ヴィヴェーカ(識別する力)は磨かれていきます。