非二元論と、大乗仏教の「空」の思想は、似ていると言われることがあります。
非二元論も、大乗仏教も、オリジナルな教えというわけではありません。
どちらにも、そのオリジナルがあります。
大乗仏教の場合には、もちろん、ゴータマ・ブッダの教えがあります。
非二元論の場合には、その源流を辿るなら、不二一元論を提唱したシャンカラの教え、ということになるんでしょうか。
オリジナルの教えが、時を経て、だんだんと枝分かれしたり、変化していくのはよくあることです。
でも、非二元論と、大乗仏教は、その源流は違います。
にも関わらず、その思想は、確かに似ているかもしれません。
なぜ、似てくるのか?
そして、オリジナルの教えから、どう変化したのかということも含めて、お話します。
ブッダのニルヴァーナを否定した大乗仏教。
実は、大乗仏教は、ニルヴァーナの存在を否定しています。
ニルヴァーナというのは、涅槃のことですね。
ゴータマ・ブッダの教えは、スッタニパータや、ダンマパダを読めば、どういうものなのかが分かります。
どちらも、大乗仏教が起こる前に作られた経典です。
紀元前200年台ごろと言われています。
その経典を読むと、「安らぎ(ニルヴァーナ)」という言葉が良くでてきます。
ブッダの教えの目的は、ニルヴァーナの境地に至るためのものだとも言うことができるんです。
にも関わらず、大乗仏教では、そのニルヴァーナの存在を否定します。
正確に言えば、大乗仏教を起こした立役者である龍樹(ナーガールジュナ)が、ニルヴァーナの存在を否定しました。
紀元150年〜250年頃の人物です。
龍樹は、「空」の思想を体系化した人として良く知られています。
大乗仏教以前にも「空」という言葉は使われていましたが、それを、論理的に体系化したのが龍樹なんだと思います。
龍樹は「一切は空であり、すべては縁起によって成り立っている」と言います。
龍樹の特徴は、その「空」にすら、実体はないと言っているところです。
(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】)
非二元論に馴染みのある人であれば、「世界は実在しないとしても、「空」(意識)は実在するんじゃないの?」って思うんじゃないでしょうか?
よく、テレビのディスプレイに例えられますよね。
僕も、よくその表現を使います。
この記事「「空(くう)」の意味、ものすごく分かりやすく解説」でも使っています。
でも、龍樹の場合、ディスプレイに映像が映っていないのであれば、そのディスプレイも、存在していないということになります。
言ってみれば、「無」です。
でも、「無」すら、実在しているわけじゃないと言います。
徹底して、実在するなにかを否定します。
非二元論どころじゃなくて、一元すら否定します。
言ってみれば、ゼロ元論、無元論という感じでしょうか。
その結果、ブッダの言う、ニルヴァーナの存在すら、否定します。
でも、ブッダの言ったことを、否定するのであれば、それは仏教じゃなくなります。
そこで、龍樹はこう考えました。
「ブッダは、大衆に分かりやすいように、「ニルヴァーナ」という方便を使ったのであって、本当に言いたかったことは、私の「空」の思想と同じだ」と。
そうして、龍樹は、ブッダの教えを立てつつ、「空」の思想を大乗仏教の中心に据えることに成功します。
でも、それは間違いです。
「空」の思想がそんなに大事なのであれば、なぜ、ブッダは、「空」の思想を論理的に体系化しなかったんでしょうか?
それを、できなかったはずはありません。
あえて、そうしなかったんです。
最古の仏典と呼ばれるスッタニパータの中には、「空」という言葉はたった1語しかでてきません。
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない。」(1119節)
これだけです。
ブッダの教えの中心は、「八正道」の実践です。
八正道というのは、ものすごく簡単に言えば、瞑想的な日常生活のススメです。
そして、なんで、八正道を実践したほうがいいのかという理由付けとして、「四諦(したい)」があります。
四諦というのは、この世は苦しみだらけだけど、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、そのための方法として、八正道がある、ということを示したものです。
四諦を理解して、八正道を実践した先に、ニルヴァーナがあります。
実のところ、「空」とは何かを本当の意味で理解できるのは、ニルヴァーナを理解した時だけです。
「空」を論理的に理解することは不可能です。
ただ、ブッダだって、この世界についての形而上学的な質問をされたなら、「空」の思想を語ったと思います。
でも、それを論理的に体系化することには、興味を持たなかったでしょう。
あくまでも、大事なのは、八正道の実践だからです。
でも、思想として面白いのは、やっぱり「空」なんです。
ブッダの死後、後世の人達が、「空」に興味をもってしまうのは当然といえば、当然のことです。
龍樹みたいに、「空」の思想を、論理的に穴のないものにしようとする人が現れたのも、当然といえば、当然といえます。
そして、ニルヴァーナに至る道は、「空」の思想によって覆われてしまいました。
不二一元論を提唱したシャンカラは、何を語ったのか?
次に、不二一元論についてです。
不二一元論を提唱したのは、インド最大の哲学者と言われているシャンカラです。
紀元700年〜750年ごろの人物です。
シャンカラは、一体、何を語ったんでしょうか?
実は、シャンカラの教えの目的も、ブッダと同じく、ニルヴァーナの境地に至ることです。
シャンカラの著書である、ウパデーシャ・サーハスリーの中には、こんな一節があります。
「それゆえに賢者は、理論と聖典に基づいて、あらゆるものに平等であり、つねに輝き、存在するとかしないとか誤って想定されている二元から自由なアートマンを考察して、あたかも灯火が吹き消されるように、完全なニルヴァーナ(涅槃)に赴く」(19章25節)
(関連記事:シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」【書籍の解説】)
ただ、ブッダとは方法論が違います。
シャンカラの教えは、哲学的です。
八正道みたいなものは説きません。
ただ、アートマンとブラフマンは、同一のものであるという知識を理解することで、ニルヴァーナに至ることができると説きます。
ブラフマンというのは、宇宙の根本原理と呼ばれています。
アートマンというのは、輪廻転生する主体、個我(魂)と呼ばれています。
「君は、自分のことを体とか心と思っているかもしれないけど、その本質はアートマンであって、アートマンはブラフマンと同一のものなんだよ」というのが、シャンカラの教えの真髄です。
ブラフマンとして在ること、それがニルヴァーナです。
なので、シャンカラは、ニルヴァーナの存在を否定する、大乗仏教を否定しています。
ウパデーシャ・サーハスリーの中でも、大乗仏教を引き合いに出して、ことあるごとに否定しています。
この頃は、インドでも、大乗仏教の影響力が強かったようです。
龍樹によって、「空」の思想を論理的に体系化した大乗仏教は、論争にすこぶる強い宗教となりました。
その影響は、シャンカラが属するヴェーダーンタ学派にも及んでいたそうです。
ヴェーダーンタ学派が、だんだんと、仏教化していっていたんですね。
「それはよろしくない!」ということで、シャンカラが提唱したのが、不二一元論なんですね。
ヴェーダーンタ学派というのは、ヴェーダ聖典に付属する哲学書である、ウパニシャッドの精神を引き継いだ学派です。
ウパニシャッドの大部分は紀元前600年〜300年ごろに作られたと言われています。
シャンカラは、論理的な整合性よりも、ウパニシャッドによる裏付けがあるか、ということを重要視しました。
「ウパニシャッドにこう書かれているから」ということに、正当性を求めたんですね。
ウパデーシャ・サーハスリーの中でも、数多く、ウパニシャッドからの言葉を引用しています。
ちなみに、なぜ、単なる「一元論」じゃなくて、「不二一元論」なんでしょうか?
それは、一元論と言っても、色々とあるからです。
アートマンは、ブラフマンの一部であるという考え方も、一元論と呼ばれます。
ブラフマンが海水なのであれば、アートマンは海水の一滴と言われることがあります。
そういった、違いがあっても、海水は海水に違いないので、一元論ということになります。
この場合、ブラフマンの中で、アートマンが輪廻するという考え方が肯定されます。
でも、不二一元論の場合には違います。
ブラフマンが海水なのであれば、アートマンも海水なんです。
言ってみれば、質も、サイズも、同一であるというのが不二一元論です。
この考え方の場合、輪廻というのは否定されます。
ブラフマンとアートマンが、質もサイズも同一なのであれば、何が何の中で輪廻するんでしょうか?
シャンカラは、ウパデーシャ・サーハスリーの中で、こう書いています。
「輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理ブラフマンの知識が述べ始められたのである。その知識から、至福(=解脱)が得られるであろう。」(1章5節)
シャンカラの不二一元論は、インドの人々に受け入れられて、ヴェーダーンタ学派は勢力を取り戻します。
反対に、大乗仏教は、勢いを失い、紀元1200年頃には、インド国内においては消滅してしまいます。
今では、ヴェーダーンタ学派というのは、インド国内でも、最も影響力のある学派なんじゃないでしょうか?
非二元論でも、ニルヴァーナは否定されている?
次に、非二元論についてです。
非二元論は、「ネオ・アドヴァイタ」とか「ノンデュアリティ」と呼ばれることがあると思います。
特に、欧米で解釈された不二一元論のことを、そう呼ぶ傾向が強いようです。
その立役者といえば、トニー・パーソンズということになるんでしょうか?
僕も、トニー・パーソンズの本を、2冊ほど読んでいます。
「オープン・シークレット」と「何でもないものが、あらゆるものである」の2冊です。
このブログの中でも、僕は、何回かトニー・パーソンズを引き合いに出しています。
この記事「非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】」とか。
どちらかというと、僕は、トニー・パーソンズに対して否定的だと思う人もいるかもしれません。
でも、そうでもないんです。
というのも、トニー・パーソンズは、ニルヴァーナを知っているはずだからです。
まあ、現代ではあまりニルヴァーナって言葉は使いませんよね。
現代では、ハート、至福、喜び、沈黙、静寂、平和、解放、生の感覚などの言葉が使われます。
僕は、「ハート」とか「至福」とかいう言葉を、好んで使います。
トニー・パーソンズは、「解放」とか「生の感覚」という表現を好むようです。
そして、トニー・パーソンズは良くこう言います。
「あなたは存在しない」
「あなたにできることはなにもない」
「ここに、生の感覚だけがある」
確かに、その通りなのですが、おそらく、多くの人は「生の感覚」を理解できないでしょう。
だって、それが解放であり、ニルヴァーナだからです。
最初のうちは、それを感じることができないんです。
トニー・パーソンズ自身は、それを感じていると思います。
でも、トニー・パーソンズの目の前にいる人が、それを感じられるかというと、話が別です。
勘違いする人も多いでしょう。
「この、退屈の感覚が「生の感覚」なのか?」って。
「この、苦しみの感覚が「生の感覚」なのか?」って。
はたまた、トニー・パーソンズの話を聞いて、ワクワクする人がいるのであれば、「あ、これが「生の感覚」なのね!」って勘違いするかもしれません。
もちろん、「何も感じないんだけど?」という人もいるでしょう。
覚者にとっての「生の感覚」は、探求者にとっては「苦しみ」だったり、「退屈」だったり、「ワクワク感」だったり、「感覚の無さ」だったりするわけです。
覚者にとっては、ひとつの感覚であっても、探求者にとっては、多様な感覚なんです。
なので、多くの覚者は、そういった、多様な感覚をとりのぞくために、方法論を語ります。
ブッダなら、八正道だったり、シャンカラなら、ブラフマンについての知識です。
でも、トニー・パーソンズは、そういった一切の方法論を否定します。
「あなたにできることはなにもない」と言います。
でも、本当にそうでしょうか?
例えば、トニー・パーソンズは、「あなたは退屈と憂鬱が生命力だと言っているのですか?」という質問に対して、こう答えています。
「退屈している・・・・これは一なるものが退屈して、憂鬱になっているのです。それは他の何かではありえません。解放は完全にすべてを含むのです。」
確かにその通りなのですが、なぜ、「退屈や憂鬱は存在しません」とは言わないのか、不思議に思います。
個人がいないならば、退屈や憂鬱を感じる人もいないからです。
一なるものは、個人が退屈していることに、気づきます。
でも、一なるもの、そのものは、退屈しません。
熟睡中には、退屈しないのと同じです。
むしろ、熟睡中には、心地よさだけがあるんじゃないでしょうか?
そして、もし、個人がいるのであれば、ある程度、方法論を伝えることができます。
でも、トニー・パーソンズは、個人の存在は認めずに、退屈や憂鬱といった存在は認めます。
真理に矛盾はつきものですが、ちょっとした矛盾のようにも思えます。
そして、にも関わらず、「至福」や「平和」や「喜び」といったものは否定します。
おそらく、「ニルヴァーナ」の存在も否定するでしょう。
なので、トニー・パーソンズの話を聞いて、こういうふうに理解する人も多いんじゃないでしょうか?
「私は存在しない、世界も存在しない、至福も存在しない、ニルヴァーナも存在しない、私にできることはなにもない、存在するのは、ただ、この生の感覚(苦しみや、退屈や、ワクワクや、何も無さ)だけ」
仮に、生の感覚を、何も感じないのであれば、この理解は、すべての実在を否定する、龍樹の「空」の思想にとても近いんじゃないでしょうか?
なので、非二元論は、大乗仏教の「空」の思想に似ていると言われたりするんだと思います。
非二元論は、その言葉のイメージから、その源流は、不二一元論(アドヴァイタ)にあるように思われています。
なので、ネオ・アドヴァイタと言われたりします。
でも、実際のところは、非二元論では、シャンカラの「シャ」も語られないですし、アートマンとブラフマンについても語られません。
「〇〇は存在しない」という思想を前面に押し出しているという意味において、ニルヴァーナの存在を否定しているという点において、やはり、非二元論と、大乗仏教の「空」の思想は似ていると思います。
でも、「私は存在しない」とか「世界は存在しない」ということは、ほんとうのところは、探求の最後に分かることです。
仮に、この世界で、1番最初に、真理を悟った人がいたとしましょう。
その人は、「私は存在しない」とか「世界は存在しない」ということを、いつ、理解するんでしょうか?
少なくとも、その理解が、探求の入り口になることはあり得ません。
それを知っている人が、まだ、いないからです。
それでも、真理を悟る人は現れるわけです。
探求において、「私は存在しない」とか「世界は存在しない」ということを、あらかじめ知っておく必要は、必ずしもないわけです。