あなたは、死ぬのが怖いでしょうか?
死の恐怖の感じ方には、結構、個人差があるようです。
僕は、小学1年生の時に、死の恐怖にとらわれました。
一方で、死ぬのは大して怖くないという人もいます。
「だって、死んじゃったら、死の恐怖を感じないじゃん」と言います。
(関連記事:人の死が怖いと感じるのはなぜか?【自分の死とどう違う?】)
でも、死が訪れる、その瞬間まで、そう思い続けることはできるでしょうか?
死の恐怖を抱きながら、死んでいくことは、恐れるべきことなんじゃないでしょうか?
バッドエンドです。
でも、「死」そのものは、決して悪いものではありません。
もし、そうであるなら、この世界は、バッドエンドが運命づけられているようなものです。
人が、死を恐れるのは、死の本質を理解していないからです。
死ぬとはどういうことか?
そもそも、死ぬってどういうことなんでしょうか?
心臓が止まって、血流も止まり、細胞の崩壊が始まり、脳もその機能を停止することが、「死」なんでしょうか?
死を、現象的に語るなら、そういうことになるかもしれません。
死ぬと、その体は動かなくなり、腐っていきます。
日本では、体が腐る前に、火葬して、骨とか灰にします。
それが、「死」ということになります。
あなたは、それを恐れるでしょうか?
おそらく、そのこと自体は、それほど恐れてはいないんじゃないでしょうか?
むしろ、恐れているのは、「意識」の消滅なんじゃないでしょうか?
死というのは、睡眠とは違います。
熟睡中は、意識が消えています。
でも、起きれば、意識は戻ります。
なので、寝ることによって、意識が消えるのを、恐れたりはしません。
でも、死は違います。
普通に考えるならば、体が死んでしまえば、意識は戻ってこないように思えます。
意識は、永遠に消滅するように思えます。
永遠の「虚無」におちいるように思えます。
人は、それを恐れるんじゃないでしょうか?
人は、意識よりも、記憶の消滅を恐れる?
多くの人は、次のような関係性で、死を恐れているはずです。
「体の死」→「意識の消滅」→「虚無」
でも、この関係性には、死角があります。
実は、「意識の消滅」の影に隠れている存在があります。
それは「記憶」です。
記憶と、死が、どのように関係しているかを、考えたことがある人はいるでしょうか?
実は、ものすごく密接に関係しています。
極端なことを言えば、多くの人は、意識の消滅以上に、記憶の消滅を恐れています。
例えば、寝て起きたら、あなたの、すべての記憶が消滅していたらどうでしょうか?
意識は消滅はしていません。
体も死んでいません。
でも、記憶は消滅しています。
記憶が消滅した、その人は、あなた自身だと言えるでしょうか?
「それは死んだも同然だ」と思う人は少なくないんじゃないでしょうか?
言ってみれば、体があっても、意識があっても、そこに記憶が無いのであれば、それは、あなたじゃないんです。
多くの人は、あまり自覚していませんが、「私が存在する」という認識は、その「記憶」に大きく依存しています。
「私」は「記憶」なのか?
そう考えると、「体の死」→「意識の消滅」→「虚無」という関係性は、疑うべきなんじゃないでしょうか?
体があっても、意識があっても、記憶が消滅することは、恐れるべきことだからです。
それは、死と同じようなものに感じられるからです。
「記憶の消滅」→「虚無」
という関係性も、あり得るように感じられます。
となると、「記憶」って一体、何なんでしょうか?
一般的には、記憶というのは、脳に格納されている、単なるデータのように考えられていると思います。
今まで、経験してきたり、イメージしてきたものの、集合体です。
でも、なぜ、その記憶が消滅すると、自分が死んだも同然だと感じてしまうんでしょうか?
それって、「自分は記憶と同じだ」と言っているようなものなんじゃないでしょうか?
実は、あなたは、単なる記憶という存在なんじゃないでしょうか?
「そんなバカな!」と思うかもしれません。
でも、この理解、可能性は、死の恐怖を克服するための、カギとなります。
記憶に、重要性を与えないこと。
本当のところは、あなたは、記憶じゃありません。
でも、あまりにも記憶に慣れ親しんでいるため、自分という存在の根拠を、記憶に貼り付けてしまっているんです。
例えば、「あなたの名前は?」と聞かれたなら、記憶から自分の名前を取り出してきますよね。
記憶を使わずに、会話することなんて不可能です。
記憶を使わずに、車を運転することも不可能です。
目的地までの道のりは、記憶から引っ張り出します。
言ってみれば、何かしらの行為をする限り、記憶の重要性は高まっていきます。
そして、記憶は、そのことを悟らせません。
記憶の重要性は高めつつ、自らは、存在しないかのように振る舞います。
日常生活の中で、あなたは、どれだけ記憶を参照しているでしょうか?
意識しているでしょうか?
ほとんど、意識していないんじゃないでしょうか?
「世界」というイメージを思い浮かべる時、あなたは、記憶の中の「世界」を参照します。
でも、あなたは、記憶を参照しているという自覚はないんじゃないでしょうか?
実在する「世界」を参照していると思っているんじゃないでしょうか?
あなたは、「自分」というイメージを思い浮かべる時、記憶の中の「セルフイメージ」を参照するんじゃないでしょうか?
そして、そのセルフイメージにリアリティを感じているんじゃないでしょうか?
でも、それは単なる記憶です。
記憶は、現実のフリをして、そこに、巧妙に隠れています。
あなたは、このことに、気がつけているでしょうか?
このことに、気がつけるようになるには、行為を止めることが必要になります。
記憶を参照しないことです。
記憶に、重要性を与えないことです。
なので、探求の世界では、瞑想が推奨されたり、静かにすることが推奨されます。
そして、記憶を参照しないことに慣れてくると、あることに気がつくようになります。
ここに、「虚無」が在るということにです。
人は、意識が消滅したところに、虚無があると思っています。
でも、虚無は、今、ここに在ります。
もちろん、5感覚を通じて感じられる、この世界はあります。
でも、その根底には、虚無が在ります。
虚無というのは、絶対的な無のことだと思われていると思います。
避けるべきものだと思われていると思います。
でも、それは違います。
虚無とは、唯一の有のことです。
次回「「虚無(絶対無)」を唯一の「有」と見抜く」に続きます。
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