ご安心ください。
真理についての話です。
今回は、ちょっと切り口を変えて、料理を例に、真理を悟るための方法論(レシピ)の是非について、お話してみようかと思います。
実は、僕は、ほんの数ヶ月の間だけですが、料理教室に通ってみたことがあります。
まあ、ABCクッキングのような大手じゃありません。
ABCクッキングは、ガラス張りのキッチンというイメージがあって、僕は恥ずかしくて通えません。。
4~5人でやるような、小さな料理教室に通っていました。
そのときの経験を交えて、真理を悟るための方法論(レシピ)の是非について、お話したいと思います。
初心者は、レシピ(方法論)があっても上手に作れない?
非二元論では、悟るための方法論は存在しないと言われることが多いです。
それは、ある意味では正しいと思います。
瞑想をするにしても、他のなにかをするにしても、真理に近づくどころか、真理から離れていってしまうことも少なくないと思います。
であるなら、瞑想をしないほうがいいし、悟るための努力だってしないほうがいい、のかもしれません。
それは、やっぱり、ある意味では正しいんです。
ただ、それは、半分だけ正しくて、半分は間違っているんです。
真理の探求というのは、行って、帰ってくる、旅路です。
帰りの帰路についている人に対しては、なにも言うべきことはありません。
まさしく、方法論はなにもないんです。
ただ、行きの往路についている人に対しては、言うべきことがあります。
ある程度の、方法論を伝えることができます。
行きの往路についている人に対して、「あなたにできることは何もない」と言うことは、料理教室にやってきた人に対して、「あなたは、すでに美味しい料理を作れるはずです」と言うことと、それほど違いません。
「いやいや、作れないから料理教室に来てるんですが。。」ということになるんじゃないでしょうか。
大抵の場合、料理教室では、レシピが用意されていると思います。
僕が通っていたところでも、キチンと写真付きで用意されていました。
でも、そのレシピを見たからといって、美味しい料理が作れるようになるのかというと、話が別です。
それは、確かにそうです。
瞑想をしたからといって、真理を悟れるとは限らないのと同じです。
だからといって、レシピ(方法論)は不要か?
でも、だからといって、レシピ(方法論)が不要かと言うと、それはまた、話が別なんです。
レシピは、あったほうがいいんじゃないでしょうか?
僕は、教えてもらった料理を、家で作ろうとするとき、もらったレシピを見返します。
「あ〜、そうだった、そうだった」って思い出すことができます。
ただ、真理の探求と、料理を作ることには、決定的に違うことが、1つだけあります。
料理の場合には、ゴールを、味覚として対象化することができます。
僕が通っていた料理教室では、いきなり料理を作り始めるのではなく、まずは先生1人が、みんなの前でデモンストレーションとして、料理を作るということをしていました。
あ〜だ、こ〜だと、解説しながら、先生が、まず作るわけです。
そして、料理が完成したら、それを、みんなで試食します。
少人数だからできることですね。
これがとても良かったんです。
自分で料理を作る前に、ゴールを、味覚で対象化することができたわけですね。
ちなみに、この料理教室で作る料理というのは、家庭料理というよりも、フレンチのコースの中の一品としてでてきてもおかしくないような、結構手のこんだ料理でした。
トリュフとか、フォアグラなどの高級食材を使うわけじゃないんですが、とても美味しかったんです。
「この味を自分で作れるようになるって凄くない?」って、ちょっと興奮しました。
一方、真理の探求の場合、ゴールを対象化することが難しいです。
5感覚で対象化できるものじゃないからです。
なので、真理については、至福、ハート、アーナンダ、真我、ニルヴァーナ、沈黙、平和、静寂、解放、などなど、様々な言葉で言い表されることになります。
でも、どの言葉を使っても、誤解を生み出すことは避けられないと思います。
これが、真理の探求の難しさでもあります。
僕は、最近は、真理というのは、未知のものではなく、既知のものだと言うようにしています。
それでも、真理そのものを対象化することはできないわけです。
でも、それでも、僕はレシピはあったほうが良いのではないかと思います。
確かに、レシピがあったとしても、その通りに作れるとは限らないわけです。
例えば、料理教室で料理を教わったなら、それを、レシピを見ながら、家で作ってみようとしますよね。
僕が、初めて、それをした時、似て非なるものが出来上がりました。
当時、僕は、料理のまったくの初心者でした。
火加減とかも良くわからないし、大さじとか小さじって何?
という感じでした。
そして、出来上がったものは、焦げ味の効いた、似て非なるものでした。
焦げ味以外にも、なにかが違う、コレジャナイ感が漂う料理になってました。
簡単に言えば、まずかったんです。
レシピ通りに作ったつもりだったんですけどね。
料理教室で食べた、あの美味しい味の記憶とは、ほど遠かったわけです。
そこから、10日間ぐらいは、毎日同じものを作り続けました。
僕は、毎日同じ料理でも、気にならないタイプです。
そして、ようやく、「あ〜、これこれ、こんな味だった」っていうところまで、たどり着きました。
確かに、レシピがあるからといって、その通りに作れるとは限らないわけです。
まったくの料理の初心者は、レシピを見ても、その通りに作れないことは多いのではないかと思います。
僕は、料理教室で試食をして、その味を知っているからこそ、出来上がったものが、違うものだと気づくことができました。
でも、例えば、料理の初心者が、クックパッドを見て、料理を作ったとして、出来上がったものが、レシピを書いた人の意図した味になるかどうかは、疑わしいものがあります。
「このレシピだめじゃん!」って言い放つ可能性すらあります。
そういった意味で、真理の探求において、方法論(レシピ)には意味がないとか、不要だと言われる理由も、よく分かります。
でも、レシピがなければ、「失敗」という叩き台すら作ることが難しくなります。
もし、料理教室で、レシピを渡されなかったとしたら、僕は、家で作ろうとはしなかったかもしれません。
結構、手のこんだ料理なので、材料を思い出すことも困難です。
そうであるなら、焦げ味の効いた失敗作を作ることもなかったと思います。
でも、美味しい料理を作れるようにもならなかったと思います。
真理の探求は、失敗続きです。
どんな覚者だって、ある程度の年数を、探求に費やします。
ブッダだって、6年ほど探求しています。
何十年も、探求する覚者もいます。
例外は、死ぬことをシミュレーションしてみただけで、真理を悟ってしまった、ラマナ・マハルシぐらいなんじゃないでしょうか。
覚者が、探求に費やした期間は、無意味だったんでしょうか?
そのことを、明確に否定することができる覚者はいないと思います。
もし、探求が続いたのだとしたら、失敗する必要があったんです。
真理は、5感覚を使って対象化することはできませんが、分離感という感覚が、「まだ、真理を悟ってないよ」ということを教えてくれます。
言ってみれば、真理の探求というのは、消去法です。
であるなら、色々と試してみればいいんです。
「レシピ(方法論)は不要」という考え方だって、ある意味では、ひとつのレシピです。
それを試してみればいいんです。
レシピ通りに作ったとしても、まずいこともある。
世の中には、数多くの料理のレシピがあると思います。
でも、だからといって、そのすべてが美味しいとは限らないですよね。
もちろん、個人の味覚の違いというのもありますし。
なので、例え、熟達した料理人が、レシピを見て、その通りに作ったとしても、結果として、まずい料理になるということもあり得ます。
そして、それは、真理の探求においても、言えると思います。
例えば、瞑想なんかは、数多くの方法論があると思います。
座り方、手の印の組み方、瞑想中の意識の動かし方、チャクラを意識する、などなど、僕が知らない方法論も、数多くあると思います。
僕は、瞑想というのは、沈黙の中にとどまることだと思っていますが、そうではなく、イメージを膨らませることを瞑想だと思っていたりする人もいると思います。
ヨガなんかも、数多くのポーズがありますよね。
ハタヨガとか、アシュタンガヨガとか、僕は詳しくはありませんが、種類も色々とあると思います。
でも、こういった方法論すべてが、真理に繋がっているのかというと、必ずしも、そうとは限りません。
瞑想とか、ヨガを続けても、必ずしも、真理を悟れるとは限らないということは、多くの人が知っていると思います。
でも、だからといって、瞑想とか、ヨガが、不要かというと、明言できない人は、少なくないんじゃないでしょうか?
少し逆説的ですが、瞑想というのは、瞑想が不要になるまでは、必要になると思います。
ヨガというのは、ヨガが不要になるまでは、必要になると思います。
問題なのは、方法論に執着してしまうことであって、方法論が不要というのは、また、別の問題です。
言ってみれば、方法論というのは、方法論が不要になるまでは、必要になるのではないかと思います。
料理だって、ある程度の経験が積み上がるまでは、レシピは必要なんじゃないでしょうか?
ある程度、料理に熟達すると、レシピが不要になるどころか、自分で、レシピを生み出したりします。
料理研究家の方とかそうですよね。
僕が通っていた料理教室の先生だってそうです。
それは、真理の探求においても、言えるのかもしれません。
【関連記事】悟るための方法論は、存在しないのか?