僕は、「苦しみと退屈を避けないこと」と、良く言います。
「苦しみを避けない」ということは、理解しやすいんじゃないでしょうか。
苦しみというのは、非常に明確です。
感情として、とても強い反応を感じるものです。
間違えようがありません。
でも、「退屈を避けない」ということは、なかなか、理解が難しいかもしれません。
退屈というのは、苦しみとは少し違って、強烈な反応というよりは、水面下での微妙な反応という感じです。
そして、退屈というのは、避けようと思えば、結構簡単に避けることができてしまいます。
無意識的に、退屈を避ける行為を行っていることも少なくありません。
なので、そもそも、退屈を感じることがないという人もいるでしょう。
そこで、今回は、退屈を避けないとはどういうことなのかについて、お話したいと思います。
わざわざ、退屈を作り出す必要はありません。
僕は、「退屈を避けないこと」と言いますが、わざわざ、退屈を作り出そうとする必要はないんです。
というよりも、退屈を作り出そうとしても、失敗すると思います。
退屈というのは、水面下で感じるような微妙な反応ですが、非常にあらがい難いです。
実のところ、苦しむこと以上に、あらがい難いです。
なので、どうしても、退屈を避けようとする方向に、向かってしまいます。
そのことに、自覚があるのならまだ良いのですが、無自覚のまま、退屈を避けようとしてしまうことがほとんどだと思います。
なので、わざわざ、退屈を作り出そうとする必要はないんです。
もし、やりたいことがあるなら、それをすればいいんです。
むしろ、やりたいことがあるのであれば、徹底的に、それをすることをオススメします。
それが、素晴らしいことであれ、くだらないことであれ、それをすればいいんです。
というより、もし、やりたいことがあるのであれば、その衝動にあらがうことはできないと思います。
その衝動を我慢してまで、退屈しようとは思う必要は全然無いんです。
ただ、このブログを読んでいる人の中には、「自分が何をしたいのかが分からない」という人もいると思います。
僕も、そう感じていた時期がありました。
であるなら、無理に「何かをしよう!」と思う必要はないんです。
何もしないのであれば、ジワジワと、退屈感がやってきます。
あらがい難い、退屈の感覚を感じることになります。
でも、もし、退屈がやって来たのであれば、そして、特にやりたいことがあるわけでもないのであれば、その退屈を避けなければいいんです。
もちろん、退屈にあらがうことは、とても難しいことです。
無意識的に、退屈を避けられるなにかを、探そうとします。
例えば、テレビを見たり、スマホをチェックしたり、ゲームをしてみたりとかですね。
現代においては、暇つぶしに使えるツールが沢山揃っています。
退屈を避けることが、大昔に比べればとても簡単になっているかもしれません。
でも、退屈を避けるために、暇つぶしをすることには、なんとも言えない虚しさを感じはしないでしょうか?
「特に、やりたいことがあるわけでもないけれども、退屈するのも嫌だから、暇つぶしでもするか〜」
もし、そうであるなら、退屈を避けなければいいんです。
むしろ、退屈と向き合う良い機会が訪れているのかもしれません。
瞑想は、意図的に退屈を味わうための手段です。
「退屈」という言葉を多用する覚者を、僕は知りません。
そもそも、「退屈」という言葉自体、あまり使われないのではないかと思います。
というのも、「瞑想する」とか「沈黙する」とか「静かにしている」という言葉の中に、退屈することも含まれているからです。
なので、あえて、「退屈を避けないこと」と言う覚者がほとんど居ないのだと思います。
でも、瞑想中であっても、自我(意志)というのは、巧妙に、退屈を避けようとするのを、僕は知っています。
瞑想中は、体を動かすことはできませんが、意志は活動することができます。
瞑想というのは、語源的に言えば、死んだ状態をシミュレーションすることです。
なので、瞑想中は、意志は消えているべきなんです。
でも、瞑想中に、意志を活発に活動させてしまう人も、少なくないんじゃないでしょうか?
むしろ、「そうすることが、瞑想である」と思っている人もいるかもしれません。
もちろん、いきなり、上手に瞑想できる人はいません。
上手に瞑想をできるようになるための、補助輪として、意志を使うということは、僕は有りだと思っています。
むしろ、最初は、補助輪は必要です。
でも、意志が、「私が瞑想を行っている」と思うようになっては、本末転倒です。
例えば、ヴィパッサナー瞑想では、意志を持って、体の状態を、頭から足先まで、スキャンするように観察していきます。
でも、そうしようとしている限り、意志は消えることができず、また、それは、巧妙に退屈を避けることにも繋がっていきます。
サマタ瞑想でも、意志を持って、呼吸の観察をし続けようとする限り、意志は消えることができません。
(関連記事:サマタ瞑想のもっともシンプルなやり方【止行】)
どんな瞑想を実践していようとも、最後には、瞑想しようとする意志そのものとして、消える必要があります。
消えるというのは、黙るということです。
沈黙することです。
もちろん、そこには退屈があります。
それでも、意志として退屈を避けようとせず、むしろ、意志として、退屈の中に沈む勇気があるのであれば、退屈というのは、幻のようなものだということに、気がつくことになるでしょう。
例えば、僕にとっての退屈とは?
「じゃあ、お前はどうやって退屈を避けずに、日常生活を送っているんだ?」と思う人もいるかもしれません。
なので、僕の日常生活を例に、退屈との関わり方を、少しお話しようと思います。
退屈を避けないというのは、まったく、何もしないということではないです。
なにしろ、こうやってブログを書いていますし。
ちなみに、真理を悟るということは、退屈を感じなくなるということではありません。
喜怒哀楽の感情は続くのと同じです。
ただ、それは、一時的なものだというだけです。
僕は、映画を観るのが結構好きです。
このブログの中でも、映画ネタの記事「僕たちは神にインセプションされてる?この存在は現実か?」を書いたことがあります。
昔は、AppleのiTunesで映画をオンラインレンタルすることが多かったのですが、最近はもっぱら、Amazonのプライムビデオを利用しています。
数日前には、近所の映画館に足を運んで、劇場版「鬼滅の刃」も観てきました。
「それって、退屈を避けてるじゃん!」って思うかもしれません。
でも、そういうわけじゃないんです。
やりたいことがあるなら、それをすればいいんです。
観たい映画があるなら、観ればいいんです。
それは、別に探求中だろうが、探求が終わっていようが、変わりはありません。
ただ、人は飽きる動物です。
プライムビデオを利用していると、無制限に映画を観ることができます。
でも、必ず、飽きがやってきます。
「観たことがない映画は沢山あるけれども、どれも観る気にはならないな〜」と思うことが、結構あります。
そんな時、退屈感を感じることがあります。
そんなときには、映画を観ようとすることを止めて、退屈の中に入ります。
すると、退屈感は消滅します。
映画を観ようとすることからの解放、退屈を避けようとすることからの解放、それが、このハートで感じられます。
なので、もしかしたら、僕の日常生活は、多くの人の日常生活と、それほど変わりはないかもしれません。
ただ、僕にとって、退屈というのは退屈ではなく、それは、意志から解放された状態であり、それは至福です。
むしろ、僕には、退屈な時間が絶対的に必要です。
(関連記事:すべては意識(気づき)なのか? それともハートが存在するのか?)
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)