自我というのは、
あなたを個人でいさせようとする何かです。
そして、個人でいさせるために、
自我は「記憶」を利用します。
あなたは、そのことに気がついているでしょうか?
「あなた」はどんな人?
まず最初に、質問です。
「あなたはどんな人ですか?」
こういう質問をされると、
なにかしらのイメージがパッと頭にでてくるかもしれません。
あなたの体の姿が、
客観的に映し出されたイメージが、
頭の中にでてくるかもしれません。
イメージではなくて、
言葉がでてくるかもしれません。
自分はどんな人間なのかということを、
箇条書きにできる人もいるでしょう。
「あなた」というイメージは、なぜ存在する?
でも、そういった、
あなたに関するイメージや言葉というのは、
なぜ、パッと頭にでてくると思いますか?
「そんなの当たり前じゃない?」
と思うかもしれません。
「あなたは、どんな人ですか?」という質問に対して、
「私は、こう思う。」という答えがでてきます。
当たり前のことです。
でも、その、あなたに関するイメージや言葉というのは、
本当にあなたが考えたものなんでしょうか?
気がついたら、すでにイメージや言葉が、
そこに存在していただけなんじゃないでしょうか?
自我が記憶を利用して作りあげます。
実は、「あなた」というイメージは、
自我が作りあげたものです。
あなたが個人として存在できるように、
自我が記憶を利用して、
あなたというイメージを作りあげています。
例えば、親から名前を呼ばれている記憶。
「タカシ!タカシ!」と母親に呼ばれている記憶です。
自我は、その記憶を見て、
その「タカシ」という名前と、
呼ばれている対象、
つまりはあなたの体、を関連づけます。
そうして、「タカシ=この体」という認識を生みだします。
生きていると、
名前を呼ばれることって日常茶飯事ですよね。
なので、「タカシ=この体」という認識はさらに強固になります。
そうして、あなたは名前を聞かれたときに、
こう答えるようになります。
「タカシです!」
自我は、あなたに気づかれないように、それをやってのけます。
自我のすごいところは、
あなたに気がつかれることなく、
それをやってのけるというところです。
あなたが、意識的に、
そういった記憶を利用して、
「タカシ=この体」という認識を作っていったわけじゃないですよね?
そんなの大変です。
でも、自我はそういったことを、
簡単にやってのけます。
自我がおこなっている編集作業は、
「名前」だけじゃありません。
「あなた」というイメージも、
もちろん、自我がその編集作業をおこなっています。
「私は意志が弱い人間だ。」
という認識がそこにあったのであれば、
自我が記憶をもとに、
そういった編集作業をおこなったということです。
そして、同時に、
「私は意志の強い人間になるべき!」
という理想まで生み出します。
「あなたはどんな人ですか?」
と聞かれたときに、出てくる答えというのは、
自我によってすでに編集された答えなんだということです。
あなたというイメージを信じることは、自我を信じることと同じです。
つまりは、「あなた」というイメージを信じることは、
自我を信じることと同じです。
それは、「あなた」というイメージだけに限りません。
あなたが持っている認識というのは、
すべて、自我によって編集されたものと思って間違いないでしょう。
人は、生まれたときには、
自分が個人であるということを知りません。
なので、その状態では、
個人として社会生活を送るのは困難です。
そこで、自我が、あなたを個人として存在させようと、
記憶をもとにして編集作業をおこなうんですね。
なので、この世界で、個人として生きていく分には、
自我の存在というのは問題になりません。
むしろ、自我が優秀なほど、
この世界で個人として生きていくには有利かもしれません。
「記憶」や「認識」を回避する。
でも、真理を探求するとなると、
話が変わってくるんですね。
「あなたは個人ではない」というのが真理です。
自我はどう思うでしょうか?
なんとしてでも、
真理を悟ることを阻止しようとするでしょう。
「個人じゃなくなっちゃったら、社会生活が送れなくなっちゃうよ!」
と思うわけです。
そんなわけで、
真理の探求というのは大きな困難をともないます。
真理を探求しようとしても、
その結果得られる認識というのは、
自我によって編集されたものだからです。
人から話を聞くにしろ、
本を読むにしろ、
このブログを読むにしろ、
それを意味解釈するのは自我です。
例えるならば、
捜査官が、スパイに情報収集を頼むようなものです。
提出される報告書は、
スパイに都合が良いように改ざんされていることでしょう。
なので、真理を探求する場合には、
「記憶」や「認識」を、
回避する必要があります。
スパイが提出してくる報告書を、
受け取らないことです。
なので、真理の探求では、
「瞑想」や「真我探求」が推奨されるんですね。
頭の中にでてきた、思考やイメージを、
ただ、眺めるだけです。
受け取りません。
それが瞑想です。
ハート(自分という存在感や感情)にひたすら意識を向ける。
それが真我探求です。
ただ、あなたが、瞑想を始めるかどうか?
瞑想が迷走にならないかどうか?
真我探求を始めるかどうかは、
自我の判断にかかっています。
真理の探求における、
パラドックスです。