今回は、KWさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。KWさん、ありがとうございます。テーマは、「ただ、静かでありなさい」という言葉についてです。
KWさんからの質問
いつもわかりやすいお答えありがとうございます。
瞑想とは思考との戦いである!【観察者=思考】、
瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?
を何回か読んで
観察者が思考だということがわかりました。
二つのブログの最後には
「ただ、静かでありなさい」
それは、「沈黙」にとどまることによって、理解されていきます。
それが、真我探求です。
とあります。
この静かであるときは、観察者を使ってはいけないということでしょうか?
自分は、普段、思考を全部消す。(観察者)という意思のようなもので生活していて、ボーッとしていると巻き込まれます。
例えば観察者を使って思考を消して、その後その意思のようなものも消すでは、いけないのでしょうか?
その時、数秒、沈黙がありますが、それを理解できるようになるまで続ければいいのでしょうか?
余談ですが、観察者も思考もない状態が、真我と何かで読んだのですが、眠る寸前にそのような状態になりますが、これは違うのでしょうか?
回答
KWさん
こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
> この静かであるときは、観察者を使ってはいけないということでしょうか?
これは、観察者を使うまでもない状態と言ったほうがいいかもしれません。
例えば、騒がしかった子供でも、大人になると静かになったりしますよね。
子供があんまり騒がしい時は、親は子供を注意して見ている必要があったりもします。
でも、静かな大人になってしまえば、注意して見ておく必要もなくなってしまいますよね。
そんな感じに近いです。
放っておけるという感じでしょうか。
> 自分は、普段、思考を全部消す。(観察者)という意思のようなもので生活していて、ボーッとしていると巻き込まれます。
> 例えば観察者を使って思考を消して、その後その意思のようなものも消すでは、いけないのでしょうか?
これはその通りです。
最初のうちは「ただ静かにする」ということが難しいので、まずは、子育てをするところから始めるという感じでしょうか。
子供が静かな大人になってしまえば、自分も黙っていることができます。
> その時、数秒、沈黙がありますが、それを理解できるようになるまで続ければいいのでしょうか?
沈黙そのものは、意志にとっては意味のないように感じるかもしれません。
「今、沈黙の中にいるけれども、それが何か意味があるのか?」とか思ったりもすると思います。
沈黙そのものに意味があるというよりは、沈黙にとどまることによって、「私は何か?」の答えに気がつきやすくなるという感じでしょうか。
ただ、気づくことをコントロールすることはできないというのが、意志にとってのジレンマです。
なので、まずは沈黙に何かを意味を見出そうとするよりも、沈黙にとどまれるようになることそのものを目標にするのがいいと思います。
最初から日常生活の中で沈黙を保てるように努力するというのもいいのですが、それだと疲れてしまう場合もあるかもしれません。
なので、まずは瞑想中だけは努力するとか、段階を踏んでもいいかと思います。
ある程度瞑想に慣れてくれば、努力するまでもなく日常生活でも沈黙が起こるようになってくると思います。
> 余談ですが、観察者も思考もない状態が、真我と何かで読んだのですが、眠る寸前にそのような状態になりますが、これは違うのでしょうか?
これもその通りです。
二度寝したときもそうですね。
意識は気づいているんだけど、思考が働いていない状態ですね。
でも、この状態も意志にとっては意味がないもののように感じられるかもしれません。
真我は当たり前のようにここに在るものなんですが、それが真我であるという気づきが起こることが重要だと思います。