真理の探求と、「霊性」は、切っても切れない関係性にあるかもしれません。
「真理を悟るためには、霊性を高めなければならないのでは?」と思う人は、少なくないのではないでしょうか?
もちろん、僕も、そう思っていたことがありました。
仏教にだって、「神通力」がありますし、キリスト教にだって、「奇跡」があります。
ヒンズー教では「シッディ(超能力)」でしょうか。
実際のところ、真理を悟るためには、霊性を高める必要があるんでしょうか?
自分の感情を、感じられるだけの霊性で、十分です。
結論から言えば、今、あなたが持っている霊性だけで十分です。
あなたは、自分の感情を感じることができているはずです。
それは、まさしく「霊性」です。
それだけの霊性があれば、真理を悟ることができます。
人は、感情の他に、5感覚も感じることができます。
でも、5感覚は、真理を悟るのには、必ずしも必須じゃありません。
極端なことを言えば、生まれつき、視覚がない人だって、真理を悟ることは可能です。
むしろ、その方が、真理を悟りやすい可能性だってあります。
真理というのは「視る」対象ではないからです。
真理は、「聞く」対象でもありません。
真理は、「味わう」対象でもありません。
真理は、「嗅ぐ」対象でもありません。
真理は、「感じる(体で)」対象でもありません。
僕は、自分の感情と、5感覚を感じることができる霊性しか、持ち合わせていません。
他の人の、感情、感覚、思考、波動、エネルギー、過去生、未来、そういったものを、感じ取る能力は持ち合わせていません。
目に見えない何かを、視ることができる能力も、持ち合わせていません。
神々の声といったものを、聞くことができる能力も、持ち合わせていません。
でも、世の中には、こういったことを感じることができる、高い霊性を持った人達もいます。
そして、そいういった人達は、こう言うことがあります。
「これは、超能力じゃなくて、5感覚が拡張されただけなんだ」
確かに、そうなのかもしれません。
でも、だからこそ、霊性を高めることと、真理を悟ることは、関係が無いとも言えるんです。
真理から見れば、「霊性」と「物質」は等しい。
「霊性」と「物質」は、本質的に、その価値は、まったく同等です。
どちらが優れているとかありません。
どちらも、5感覚を通じて感じられるという点において、まったく同じなんです。
例えば、霊性修行を通じて、霊的な何かを視れるようになったとします。
霊的な声を聞けるようになったとします。
すると、そのことに、喜びを感じるかもしれません。
でも、そのことと、真理は、どう繋がっているでしょうか?
霊的なものが視えたり、聞こえたりすること自体が、真理でしょうか?
そういった、霊的な体験は、一時的な体験なんじゃないでしょうか?
ビジョンや、メッセージは、一時的なはずです。
であるなら、その体験自体が、真理であるはずがありません。
そして、それは、例えば、旅行に行って楽しんだときの体験と、どう違うでしょうか?
実のところ、大して、変わらないんじゃないでしょうか?
あなたの、その感情は、何を求めているでしょうか?
心地よい感情を求めているんじゃないでしょうか?
その感情は、5感覚の刺激に反応します。
その感情は、「霊性」と「物質」を区別しているでしょうか?
区別なんか、していないはずです。
感情は、「CG」と「実写」も、区別しないんじゃないでしょうか?
「CG」だろうが、「実写」だろうが、それが良い映画であれば、感情は同じように感動するんじゃないでしょうか?
それと同じように、「霊的」であろうが、「物質的」であろうが、それが良い体験であれば、感情は同じように喜ぶんじゃないでしょうか?
「霊性」と「物質」を区別しているのは、あなたの、そのマインドだけです。
そのマインドが、霊性を特別視しているだけです。
人によっては、「霊的な声が、真理へと導いてくれるんじゃない?」と思うかもしれません。
でも、それは、生きた人間の声を聞くことと、何か違いがあるんでしょうか?
どちらも、5感覚を通じて聞くことには変わりありません。
霊的な声が優位であるという確証は、どこにあるんでしょうか?
それこそ、マインドが、霊的な声に、優位性を与えているだけです。
確かに、世の中には、不思議な能力を持った人がいると思います。
「なんで、そんなことが分かるの!?」というような能力を持っている人がいると思います。
何か、霊的な声が聞こえているのかもしれません。
でも、その霊的な声が、「真理」を指し示すことはないんです。
それは、ヴェーダとかブッダの時代からそうです。
例えば、最古の仏典と呼ばれるスッタニパータでは、神々が、ブッダのところにやってきて、真理の教えを乞うといった描写が少なくありません。
つまりは、神々は、真理を知らないんです。
ヴェーダのチャーンドギヤ・ウパニシャッドでもそうです。
神々の王と呼ばれるインドラは、ブラフマン(真理)を人格化したような存在であるプラジャーパティに、ブラフマンの本質は、「熟睡中」と同じであるということを教えられます。
でも、インドラは、それを認めません。
だって、「熟睡中」には、インドラだって存在できないんですから。
「熟睡中がブラフマンそのものなのであれば、それを認識するこの私(インドラ)が存在していないではないか!」ということになります。
霊性修行することで、霊性が高まり、見えない何かが見えるようになったり、聞こえない何かが聞こえるようになったりするかもしれません。
でも、本当に、真理を悟りたいと思ったのなら、それらを捨てなければいけなくなります。
熟睡中に、霊的な声は聞こえるでしょうか?
何かしらのビジョンが見えるでしょうか?
だからといって、霊性の向上を否定するわけじゃありません。
でも、だからといって、僕は、霊性の向上を否定するわけじゃないんです。
たまたま、僕は、霊性の向上に対して、あまり興味を持つことができませんでした。
もし、興味を持っていたのなら、必死に霊性修行をしたはずです。
今ごろ、何かしらのビジョンを見たり、何かしらの声を聞いていたりしたかもしれません。
僕は、真理と霊性の関係性については理解していますが、霊性そのものの、中身については、ほとんど知りません。
もし、興味が持てるのであれば、それは、おそらく、楽しいのだと思います。
なので、霊性修行を楽しみたいという人は、楽しむのがいいと思います。
ただ、「霊性修行の、先に、真理がある」という考え方には、「それは違うよ」と言っておかなければいけないような気もしています。
それは、間違ってはいないのですが、とても遠回りになる道だからです。